雫石鉱吉先生
そんな石巻に3年くらいいて…大阪に出て来たのが昭和13年。英語の教師をしていた親父が浪高の校長でしたから、それで…空いた時にスグ呼ばれた、というワケなんです。当時、浪速高校は一貫教育で…尋常科というのが中学に該当しました。北野と同じように入学試験があったんだけど、府立のほうは一斉にやるでしょ。浪高は一校だけでやるもんだから、もの凄く難しくてね。10数倍の難関で…。サントリーの佐治さんとか、名家の子弟が多かったですよ。
そんな浪高の尋常科が新制に変わって無くなりまして、昭和22年に大手前に行きました。そして、翌23年に新制高校の発足とともに北野に転属となったわけです。通勤に楽なように、ということでしょうか「土佐堀川より北は北野に行け」ということになって…。例外もあったかも知れんけど、原則としてはそうだった。生徒もそうして男子と女子を半々に混ぜたでしょ。
最高責任者は長谷川寛治先生。バチンさん。歳から言えば高岡という…家庭科の女の先生が一番年寄りだったけどね。しかし、やはり北野の先生達との交渉事は…長谷川先生が先頭でね、やったんです。ところが…何しろ大手前は女学校だからね。優しさというか…その点、北野は男子校だったから荒っぽかったね。女の先生なんか…何人くらい逃げ出したかな。一年間は泣きながら我慢されてたけれどね。
当時、校長は浜田という先生で府の学務課長と兼任しておられた。それで、あんまり顔を出されないものだから、例のカレヤンと言われる鈴木教頭がほとんど現場を取り仕切っておったンです。われわれはちょうどそこへ、新しい顔ぶれとして十何人か…大手前からやってきたワケです。
このカレヤンの他に水鳥先生とか原先生といった…いわゆる古顔で弁も立つ重鎮が、北野の変革をできるだけ現状維持の方向で…いわば、大手前の連中にモノを言わさんように…押さえておられましたね。われわれも古い人にはとっても頭が上がらなくって、全然歯が立たない。まぁ、しようが無いですわ。何て言うか…一方は、前からいる「家つきの連中」ですわな。こっちは「嫁に来た連中」ですから。どうしたって、そこがうまく行くハズがない。そこに林先生が校長として来られた。われわれは諸手を上げて歓迎しましたよ。
大手前で、日陰者で…冷や飯を喰っているような連中には、何か太陽みたいな印象でしたね。その林校長が、大手前−北野の壁を融和させるように持って行った…そういう意味で非常に良かった。初代の高校校長として、わたしたちは今でも名校長であったというふうに思ってます。
しかし、校内はとかく混乱期だったね。床板があちこち抜け、窓ガラスは割れている。机を叩き割って焚火する輩もおれば、職員室の隣の部屋を占拠して平気で煙草をふかしたり…。それでも寛容な時代だった…というか、当時は職員会議でそんなこと、あんまり問題にならなかった。教師の側にもいい加減な先生がいっぱいいたからね。朝からお酒を飲んで十三から学校に来る途中に倒れている先生もいたというし…。
混乱といえば、討議式授業というのもあったな。教室の椅子をバラバラにして、丸く円形に並べてね。教師はアドバイザーみたいな役割で、生徒が主体的にやる…という。アレは非常にやりにくかったね。すぐダメになっちゃったけどね。
生徒は面白いから…ただ、あんまり建設的な話をするのでもなく、他人の足をひっぱることとか、学校の悪口言うとる子とか…そんなことばかりに終始してましたから、それほど意味があったとは思えませんね。あのまま押し通してやっておれば…案外良かったのかも知れないけど。しかし、受験勉強には具合が悪いな。
受験といえば…新制になってカリキュラムが横並びに一新されたおかげで、四修で旧制高校に入ろうと思って1・2・3年とキチンと勉強してた生徒にとっては、高校1年でまた同じことをやる。何にも新しいことあらへん…という弊害がかなりあった。その所為か、随分と生意気な学生が多かったな。
反戦同盟もこの頃やったかな。何しろ配るビラの紙すら無かった時代だからね。正門やのうて…十三に出る通用門の前に机おいて署名運動をやった生徒がおって、先生が「止め」言うて…ちょっとした騒動になった。彼は「無許可団体でそんなことやった…」というカドで、その場で退学。そのハナシを聞いた生徒たちの中で「何で退学さしたんや?」言うて抗議する者も出てきてね。「校長の裁量権いうても無制限やないハズや、ちゃんと規則や決まりの根拠はあるのか…」それで大騒ぎになったことがある。
女の子を殴った…とかいうので停学処分になったのもいたね。「男の子は掃除をしなくても良い」というのに腹を立てた女の子が、何かの拍子に部室の屋根の上からバケツの水をぶっちゃけた。それが、たまたま下にいたラグビー部員の頭のうえにかかって…。彼もその場で怒っていればまだしも、後から彼女を屋上に呼び出して叩いた、というからね。
「こんな学校、通うの嫌や」言うて、女の子は家に帰ってしまうし、先生が呼びに行ったら「もうアノ学校へは行かん」とか…。それで、そのラグビー部の部員が何日間か停学処分になった。
共学ショック…とでも言うのかな。卑近なハナシだけど…女子トイレがなくてね。大手前から来た女生徒は、しばらくの間、職員トイレの「大」の便所を使うことになった。それにしても、ほんの3〜4つしかありませんでしたから、休み時間の度にそこへズラ〜と行列ができた。
「トイレが無い。自分たちが出来ない…」という女生徒の苦情はよく分かるんだけど、反対に教師の立場としては、女の子に便所を占領されると、なかなか入りづらくてね。「もう、授業が始まるのに…」と焦ることもしばし、で。真ん中にベニヤ板を張っただけの仮設トイレが緊急に造られて…とにかくトイレは大変でした。
あと…校歌ね。
北野で漢文の教師を14年、教頭を4年ばかり勤めまして、池田高校に校長として赴任しました。そうしたら池高では、みんな新しい校歌を歌ってんだね。タケナカ・イクという人が作詞をした、それは素晴しい名歌なんだけど…昔の池田中学時代のやつは完全に消えちゃってんだね。
だいたい他所の高校はみな校歌を変えたんだよ。ところが北野は「校歌を替えよう」という発想がこれっぽちも出て来なかった。考えも、思いもつかなかった。話すら無かった。伝統というものが生き続いている、というかね…。
ドコの学校でもあったんだよ。融和しない…という問題は。男女共学黎明期のとまどい。でも北野の場合は…何て言うか、これっぽちもハナシが出て来なかった。そして「六稜の星のしるしを青春の額にかざし〜」と依然、歌ってるんだからね。
「隣に北中の人が居る」といって市民が歌いだす(?)…というくらい『六稜の星のしるしを』が生き甲斐みたいになってる。それを替えようなんて思いつきもしない。ものすごい誇りですよ、北野というのは。
もう絶版になっちゃったけど…その頃の思い出を綴った著作が今までのところ2冊くらいあって。ちょうど今、3冊目を書いてるトコなんだよ。山の奇跡を題材に観音信仰と絡めてね…私の母親が非常に観音信仰の強い人だったんだけど、後で考えてみるとどうも繋がりがあるみたいなのでね。それを『山の観音力』という題でね。書いてみようかな、と思って。もう、ほとんど終りに近いトコロ。
文楽にも有名な『壺坂霊験記』というのがあるけれど…まぁ、あのようなもんだね。現代版『新・霊験記』そう、思って貰ったらイイです。