村上正己先生
長寿の秘訣は朝の散歩かな。茨木の繊維高校の勤務時代に歩く習慣が付きましてね。それから毎朝ずっと。今朝もね、御所の石砂利の庭をね。
初めは雨降りの日も傘を差して散歩してましたが、これはダメですね。僕の哲学として。食事には気を付けています。お酒は毎日1本(好きなんですがね…)。それから睡眠です。たいてい夜9時半には寝ています。それで朝5時過ぎには起きて。散歩ですよ(笑)。
広島県沼隈の生家 |
ここから明治専門学校に進学しました。これは現在の九州工業大学ですかね。明治40年に資本家の手で設立された私立の工業専門学校でね。僕が通っている間に4年制となり、卒業後すぐに助手の職につきました。
しかし一番気性の荒っぽい時期でしたからね。25歳くらいでしたか。助手では飽きたらず、新聞記者から政治家になってやろうと思って飛び出しました。手ほどきをしてくれる人が居たのです。しかしね、世の中そんな思った通りになるわけがありませんよ(笑)。
うまく行きませんでね…遊んでいるわけにもいかないので母校に相談したら、ちょうど「愛知一中で数学の先生を募集してる、行ってみんか」ということになり(僕は工業の学校を出ましたが、工業の免許と数学の免許を貰っていました)、これを受けました。現在の旭丘高校ですね。
この中学がたいへん変わってましてね。成績はいいのですが、甲・乙学級は暴れん坊組、丙・丁学級は秀才組で、きっちり二分されてました。校長の流儀で「スポーツする者はスポーツを、学問をやる者は学問を」という方針だったのです。
ところが、スポーツをやるほうの学級が、だんだんガラが悪くなってきてね。乱暴な学校でした。あんな学校は知りませんね。赴任してみるとガラス窓が半分ほど無いんです。県もガラスを入れないんですね。入れてもすぐに割るからと言って(笑)。
ここでは「ザンバ」という渾名で呼ばれてました。そのころ流行っていた映画の題名で…主人公のライオンの名前だったのです。ある日、生徒が体操の授業を見学しているので理由を聞きましたが返事がありません。「こやつ、おかしな奴だ」と思っていたら、いきなりライオンの吼える真似をして「ウオー」と飛びかかってくるんです。ひどい奴がおりました(笑)。
そんなでしたが、不思議とよくデキる学校でした。八高(現名古屋大学)には毎年50人から60人が合格してました。八高の学生の5分の1は愛知一中の卒業生で占められていましたから。僕も教師として最初の学校だけに、この愛知一中のころが一番懐かしいですね。
聞き手●菅 正徳(69期)、壽榮松正信(74期)
収 録●Jan.24,2000
(京都市内のご自宅にて)