52期の卒業アルバムより (昭和14年3月) |
北野ではラグビー部の部長をしていました。夏休みには生徒を連れて合宿訓練をしたものです。何しろ坊ちゃん育ちですから、一旦休みに入って家に帰ってしまうと今度はなかなか出てこない。それで家に帰れないところを借りて訓練をするのです。徳島商業の校舎を借りたこともあります。普通教室を借りて、布団屋さんから布団も一式借りてきて、机の上で寝たものです。激しい訓練をしましたね。
僕自身は明治専門学校時代にボート部に所属しましたが、スポーツのうちでも一番ラグビーが好きでしたね。それで大阪を辞めて千葉に行った後も、応援のために大阪には帰って来てました。その時に準優勝だか優勝だかしてくれた記憶があります。
結局、家内が病気になって千葉から大阪に戻ることにしました。それで大阪市の「硯学」をすることにしたのです。
ひどい時代で…先生の応召があって、僕は幸か不幸か高校卒業時に肺尖カタルの経歴があって(当時はまだ薬も発明されていない死病でしたからね)それで「丙種合格」。学校を休職しろとまで言われたくらいです。
しかし、専門医に言わせると「君のような病状で働くのをやめたら、大阪の先生は半分が辞めんならん。激しい運動をしなければいい。散歩をしなさい」。お陰で休職もしなくて良くなったのです。
当時、先生が応召されるときには、生徒が旗を振って見送ったものですが、戦争末期にはそれすらできない状態でした。生徒は勤労動員(愛国勤労奉仕)に行かされました。
そうこうするうちに市岡工業の校長職が降ってわいて…そもそもは商業学校だったのですが、時節がら「商業など必要ない」ということで工業学校に変更されたんです。それで急遽、工業学校出の校長が必要ということになって僕に白羽の矢が当たった。
生徒は勤労動員で日立造船に行ったりしてますからね。大変だったですよ。昭和20年頃です。爆撃もありました。大正区はたくさん焼けました。全校生徒が500人いるはずだったのですが、朝礼で校長挨拶をしても生徒が30数人しか見当たらない…そんな日が続きました。
戦争が終わって市岡工業も元の商業学校に戻り、商業の校長が来ることになりました。それで僕は教育長のところへ行き、自身の進退を伺ったところ「君には泉尾工業へ行って貰うから…」ということで、隣の泉尾工業の校長へと転任しました。
苦労しましたよ、泉尾工業では。何しろ焼け野原でしょ。校舎も焼かれてしまって無い。昔、教練をしていた武器庫を校舎代りにして授業を始めました。生徒は主に大正区と港区から来ていたのですが、それがみな故郷に帰ってしまっていて…(笑)。
泉尾工業の在職中に学制改革が行われ、新制高校の校長になりました。ここで10年余り勤め上げ、最後に都島工業の校長を3年勤めて定年になりました。
聞き手●菅 正徳(69期)、壽榮松正信(74期)
収 録●Jan.24,2000
(京都市内のご自宅にて)