岡島先生謝恩会にて同窓会有志 (昭和41年/1966) |
石田千代之輔先生
Q.先生の数学は我々凡才にとってはわかりやすい授業でした。「同じことは一緒であります」などの先生の冗談が忘れられません。
わかりやすいと言ってくれるのは、唯一私の取り得ですかね。当時の北野にはおもしろい先生が多かった。私もそうですが、文理大とか教育大を出られた先生が少なくて、何か大学の授業の雰囲気があったんではないですか。
高校の指導要領などにのっとらずに、自分の個性で教えておられた。レベルは高かったと思いますよ。英語なんかでも東大の教養ぐらいの高さはあった。勉強はするし、運動はするし、とにかく生徒は自由でかしこかった。
那智山へ新婚旅行 (昭和26年/1931) |
Q.最後に北野の先生時代の印象をもう少しお話願いましょうか。
さきにお話したように、私は高校の先生をする勉強はしていない。何も知らずに教えていたことになるのですが、できるだけわかりやすく、できるだけ楽しく授業をすることを心がけましたね。印象深いことは、勿論あの昭和31年の熱田神宮事件などもあるけれども、私は教務だから直接のアレはなかった。ぼやっと、ええ学校やな、ええ生徒やなという印象が強いですね。勤評のころはちょっといやらしかったかな。北野分会というのがあって、ちょうど私と西田さんが責任者みたいになりました。林校長との団体交渉などもやらんならん。それに外からオルグというのが来てえらい熱心やった。北野は拠点校やったからね。ハンストもありました。宿直室で少なくとも5人ぐらいの先生がハンストするのを御世話する。ところがやっぱり北野やね。授業はやる。フラフラの先生が授業は大事やと出て行きはるのです。ドクターストップがかかって3日ぐらいで止めになりました。時限ストというのもやりましたが、北野だけは指令に反して授業はするのです。まあ、あんまりこんなことは言いたくないが、反主流や主流やら、組合員や非組合員やらで、あんまりおもしろいものではなかった。私やら古い先生はみんな組合員やったですよ。そんなことで、残念だけど1回だけ時間割の編成をやってない年が実はあるのです。まあそれも古い話です。こうしていろんな機会に卒業生の会に出て、昔の生徒達と話ができるのが本当に楽しみです。昔からの山歩きで足は強いからよく歩きます。それにときどき孫の数学をみてやることもある。今でも大学入試の数学はまだまだ解ける。まんざらでもないですね。
聞き手●稲森久彦(69期)、小寺範生(69期)、菅 正徳(69期)
収 録●Apr.8,2000(69会・花見の会/大川堤にて)
Nov.11,2000(69期7組の会/ハービス大阪にて)
Dec.24,2000(石田先生邸にて)