毎日新聞に入ったとき、社内の知人というのを書くところがありまして、他に知ってる人がいなかったので瀬川健一郎と書きました。この人は北野中学で森本薫(43期)と同期だった人です。なぜ瀬川さんのことを知ったかといいますと、大阪高等学校で同級生だったのが京大に進み、やっぱり毎日新聞社に入ったんですが、彼は学生時代から描いていたマンガを毎日小学生新聞に買ってもらっていたんです。その小学生新聞の当時の副部長が瀬川さんだったんですね。お前も毎日に入るのにちょっと知っとったほうがええで言うて、入社前に瀬川さんに紹介してもろたんです。同じ北野中学やいうことで、瀬川さんは私をようかわいがってくれはりました。
小学生新聞を毎日が一番最初に作って、瀬川さんが東大の美学出て入社したのが昭和10何年かな、ずっと小学生新聞におった人です。よく帰りに曾根崎警察の近くのアメリカンという喫茶店、今もあるかな、あの当時としては綺麗な内装で、そこでいろいろ教えてもらいました。「北野君、女性にとことん惚れないと一人前にはなれないよ」なんてね(笑)。僕は瀬川さんが織田作之助の小説に出てくるモデルだということを知っているから、やっぱりそうかなと思って聞いていました。大谷晃一さんの書いた『織田作之助』という評伝になんべんも出て来るんです。
◆七月の初めに小試験があった。それが終わると夏休みになる。大阪へ帰る汽車の中で、同級の瀬川健一郎と会った。彼は大阪市北区天満綿屋町の質屋の息子で、北野中学出身。
◆(昭和八年七月、三高第三学年の)作之助は京都大学の地下食堂で森本薫に会った。作之助にせがまれて、瀬川健一郎が引き合わせた。森本と瀬川は大阪の北野中学の同級生だった。
◆(十四年)野間宏は前年に京大を出て大阪市役所に勤めていた。作之助に千日前で会い、プレイガイドをしている母の店へ連れて行った。ぶらぶらしているようなので、夕刊大阪新聞なんかに入れたらええがな、と野間。これは、やがて現実になる。作之助はいささかあせっていた。新居も見つかり結婚式も迫ったのに、就職口がない。(略)仲人に瀬川を頼んだ。彼は京都下鴨の宮田家に結納を持参した。
織田作は二度結婚してます。最初のは長い恋愛のあと戦争中に結婚してるんですが、そのとき瀬川さんが仲人をするんです。一番親しかったと思いますよ。ほんとにまじめで、織田作之助と対照的な人やと思いますよ。だからかえって親しかったのでしょう。
「青春の逆説」という小説の中にこんな文章があります。
◆野崎は(これが瀬川さんです)ひどく忘れっぽい男で、教室でもたびたび教科書を忘れ、隣の豹一(これが織田作之助ですな)の机へ自分の机を寄せて、「ちょっと見せてんか」とこれが三日に一度である。その都度、気の毒そうに、「君も大阪やろ?大阪へ帰るんやったらわいの定期貸したるぜ」というのだった。彼は毎日大阪から通学していたのである。「君はどうするんだ?定期無しで…・?」と訊くと、「わいは京都で待ってるさかい、大阪へ着いたら直ぐ定期を速達で送ってくれたらええのや」
こういうふうな人だったんですね。この通りやっただろうと僕は思うんですよ。
織田作之助と一緒に宮川町に行ってですね、お金がなくなって、ちょっと金捜してくるわいうて金策に行ったけれども、京都ではお金のあてがつかなくて二日後に大阪からお金持って帰ってきた、そんな話です。織田作之助はこう書いています。
◆豹一は何か底知れぬ野崎の魅力に触れた想いで、にわかに友情が温って来た。(俺はしょっちゅう自尊心の坐りどころを探して、苛立っているが、野崎は珈琲一杯の中に胡坐をかいてしまうことが出来る。何という違いだ!つまり俺の方がずっと浅ましい存在なんだ)そう思うようになったのは、豹一としてはかなりの進歩だった。
ここにあるように、織田作に非常に影響を与えている人だと思いますね。
『大毎小学生新聞』創刊号(昭和11年12月22日) 提供:毎日新聞社
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手塚治虫が世に出るきっかけを作ったのも瀬川さんやったと僕は考えているんです。毎日新聞に入社したとき一緒で一番で入ったのが本田といって、当時の社長の息子でした。彼が阪大の医学専門学校を戦争中に出てるんです。小児科の医者をして、途中でまた文学部に入り直して、卒業して我々と一緒になったんですけど、彼が阪大の医専におるときに手塚さんもおったんですね。それで手塚さんに頼まれたことがある、こういうものを描いているんだけど、何かに載らんかと。毎日小学生新聞に彼はお父さんに頼んで紹介するんですよ。それが手塚さんのデビューだと思うんですよね。それは手塚さんは書いてないけど、僕は本田君から、手塚さんに頼まれてお父さんを通して小学生新聞に紹介したことを聞きました。そのときに瀬川さんがおったんですね。ですから北野の後輩やいうことで、きっと手助けしたと思いますね。瀬川さんは小学生新聞の生え抜きで、ずっとその中心的な仕事をしていた人です。地味な人でしたが、人に手をさしのべる人でした。そういうことを考えるときっとそうやと思います。北野の縁なんですね。手塚さんがいたら聞けるんですが。
瀬川さんは、戦後まもなく織田作之助が出てきた頃に『大阪の灯』という小説を1冊出しました。藤澤桓夫さんが序文を書いておられ、そこには瀬川君はでしゃばらない控えめな人だけど実に立派な文学をする人だとあります。阪東妻三郎の評伝も書かれて毎日新聞社から本になって出ています。あと1冊くらいありましたかな。でも流行作家にならずに地味な方でしたね。
僕は『サンデー毎日』にいた最後の頃は毎週一人ずつインタビューしてたんですけど、その中に手塚さんもいます。手塚さんのプロダクションの作品がアメリカに高い値で買われたというニュースがあったころでしたね。