原稿執筆中(s50頃) |
同じ新聞社ですから単なる異動なんですが、やっぱりもちろん違いますね。石坂泰三さんに何かのことがあってインタビュー申し込んだとき、経済部の記者クラブの人には会いますが週刊誌の人には会わないことになっていますと言われましてね。記者クラブいうのは向こうは安心できるんですよ。経済部の会社担当の記者が集まっていて日頃顔を会わせていますからね。そこへ社会部系の記者が行くと困りますわ言われてね。何か事件がないと来ないでしょ。名刺もらったらビクッとする(笑)。さらに週刊誌やったら警戒するんです。何だと思って取材やめたこともありましたね。その違いはありますね。
私が『サンデー毎日』にいたころは週刊誌が40円でした。非常によく売れていましてね、当時『週刊新潮』は出ていたんですね、でも圧倒的に『サンデー毎日』と『週刊朝日』が部数が多かったですわ。百万部近く出ていました。今はどんと落ちてしまって。特に小説のいいのが集まっていて、みんな力入れて週刊誌に書いていた時代でした。そのちょっと前までは『週刊朝日』が吉川英治の「新平家物語」でどんどん売れたんです。その次に『サンデー毎日』で「明治大帝」、これはあんまり売れなかった。私がおった時は山崎豊子の「白い巨塔」をやっていた。話題になってベストセラーになったでしょ。そこへ司馬遼太郎の「国盗り物語」が始まって、どっちもおもしろかった。マンガは長谷川町子が「エプロンおばさん」を描いてました。それから加藤芳郎さん、今でも描いておられる。40円が値打ちありますでしょ。
そのころから週刊誌の特集記者が育ってきたんです。戦前の週刊誌はニュースものは新聞の編集局に依頼して、ちょっとしたニュースがあったらニュースストーリーを書いてもらって載せる、あとは決まりもんでね、小説と読み物で売れていたのが、大正から昭和の戦争まではそうだったんですね。やっと週刊誌だけの独自の取材で独自のトップ記事、トップ屋というのが出てきたのが昭和30年代ですね。週刊誌というのは新聞社しか出せないと思われていたのが、『週刊新潮』がなぐり込みをかけてきて、トップ屋という職業が生まれました。『女性自身』は出ていました。これも40円でした。ところが『サンデー毎日』の原価は20円、『女性自身』の原価は38円であると聞きましたね。あっちは紙もグラビヤが多く、記事も外注ですよ。新聞社のは社員に書かせた。多少は原稿料出しますけど。部数が多いもんだから、単価が安くなる。そうすると半分儲かるんですよね。ちょっと計算してもわかるんですが、ごっつうドル箱やったんですよ。それが新聞社にとっての週刊誌黄金時代の最後やったんです。それから『週刊現代』や『週刊ポスト』が出てきまして…。
やっぱり時代に合うメディアというものがあるんですね。そりゃ、作り方がまずいということもあるんですけどね。あの頃、創価学会が『週刊言論』いうのを出したけど潰れました。それから中央公論が『週刊公論』を出しました。みんなもう忘れていますけど。週刊誌が売れる時代でもですね、上手に作るか下手かはあるんですね。総評も作りましたよ。でも、当時全盛時代であったあの総評の組織をもってしても続きませんでしたね。不思議なもんですね。その中で残ってきているのは大したものですよ。新潮も文春もポストも現代も。しかし、全体として、その時代にもっともふさわしいメディアというものが変わってきていると思います。