われら六稜人【第45回】「養生こそ至上の処方なり」
第1診察室
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もう一つさっき言った白クモでね、軟膏を塗られたわけです、それでぴかっと光って、ポマード塗っているようなもんですから、丸刈りで軟膏塗ってね。それからもピカソと言われたのですね。
DDTの白い粉みたいな物を頭からシャツの中までやられました。ノミやシラミの時代やからね。大変な時代でしたね。泉尾北小学校の想い出です。
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でもね、本当は中学校で一番上に女の子がおったんですよ。僕は2番やったんです、クラスでね。一番上の女の子にどうしても勝てないのです。彼女は市岡へ行きますから、それで僕は北野に決めたのです(笑)
女の子おるからそっちへ行きたいんじゃなくて逆やったからね(笑)。その子のことは、その後の状況を、全然知らんのです。僕は、あきませんのですわ、過去がわからんのですよ。過去を覚えていないんですよ。何かこう先の事ばっかり考える質なんかな。結局、5年先、10年先考えてやってしまうんですね、過去のことはもうどうもあかんのです。
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クラブ活動は、卓球をやっていました。それに、山岳部もやっていました。30キロの砂を背負って、階段上り降りとかそんなことやっていました。 僕ね、山岳部の時に蓬莱峡で練習したんですよね、岩登りですね、その時にね、一人落ちたんですよ、滑落したんですよね。それで血だらけになりおったんです、擦り傷で。落ちたけど命綱あるからね、下まで落ちたわけではないんですが。ズルズルっと血だらけになって、僕は下におったんやけど、そいつ血だらけになって上まで登ったんです。僕それ見てね。ああ、俺はようせんわこれは。それで山岳部をやめて卓球部に行ったんです(笑)。
北野の先生では、やはり飯田先生。3年の時に担任でしたが、いい思い出がないんですよ。僕ね、どう言われたかというとね、阪大医学部受けると言ったでしょう。「それは危ない、だから滑り止めとしてどこか受けるように」と。滑り止め言われても、受けたいとこがない。しかし、どうしても受けと言われて、京都府立医大やったら受けると言ったのです。飯田先生は、そこだったら同じぐらいだから、受けんでもいいと。こう言うたわけです。これは覚えているんですね、しっかりと(笑)。
それで僕は阪大に合格してね、報告に行くでしょう。行ったら、たまたまおられなくて、これはええわと思って、メモだけ残してね。それっきり会わずですよ。通りましたというメモだけ残してそれっきり会わずね(笑)。
北野での想い出は、残念ながらこれくらいなんですよ。過去のことはもうどうもあかんのです。
Update : Aug.23,2001