堤 大手前には「大手前教育」というのがあって。うちらは大阪ではトップやと思って頑張っていたわけ。マシやと思てたのに北野に行ったらクシャッとやられてね。 北村 私の姉が大手前だったんですけど、大学のように講座制にして随分すすんだ形の教育してたらしいですよ。 (編) 女子の進路はどうでしたか。 堤 就職した人も多かったね。 斎藤 就職難の時代であったけれども、皆さんいいところに行かれたわねえ。 堤 「北野からやったら銀行でもどこでも世話してあげる」というのあったわねえ。 (編) 女子が大学に行くということについてはどうでしたか。 田村 両親は言わなかったけど、「大学行ってどうするの?」という親戚の人はいましたよ。 斎藤 行くものと思ってる人と、そうでない人といたわね。 堤 最初、女学校という感覚で大手前に入れてるわけでしょ。それが新制高校に変わってしまって、4年で専門学校に入れるつもりやったのに2年も遅れてるという感覚やったわけよ。女の人は20歳から23あたりが勝負という時代でしたからね。 斎藤 家庭によるのかもしれませんけど、うちはそんな雰囲気は全然なかったし、当然上に行くものやと思ってましたけどね。 堤 少なくとも大手前に行かせようというお家の方はね、やっぱり専門学校…たとえば府女専(大阪女子大)、牧野の女子医専(関西医大)、奈良の女高師(奈良女子大)なんかに行かしたいと思ってたのよ。終戦後ごちゃごちゃになって、経済的に苦しくて、東京になんかは行けませんでしたから。まあ一年違うと事情もちがうでしょうけど。 田村 先生に私たちの学年と一年上とではえらい違うと言われましたよ。64期は女学校の2年間→併設中学3年生→新制高校1年生と下級生がずっと無くて、高校2年生の時に初めて下級生が入ってきたけど…あの人たちは私たちよりずっと大人やったね。あっちはずっと最上級生でしたものね。 堤 でも64期の女子は可愛がられてたでしょう。 田村 ずっと下級生気分で、英語なんか上の学年の人に教えてもらったり。一年下の女子は、「水泳大会、男女一緒にするの嫌です」ってハッキリ言いはったものね。 堤 しっかりしてたわね。女子を召集してね、「なんで女の子だけこんなこと言われないといけないんですか」と言ってきましたから。男の人たちは64期の女子がおとなしかったから可愛がってたみたい。私たちは憎たらしかったみたいよ。それはよう言われましたから。 (編) 大手前女学校という看板つけて乗り込んできたからやないですか。 堤 そうなんよ。私達の期は張り切りガールが多かったと思うわ。 (編) 63期は3年間、64期は4年間過ごしたあと、出る時はどうでしたか。 青木 出る時は良かったのよねえ。 一同 北野に来て本当に良かったわよね。 堤 北野は自由でしたから。大手前は女子校の厳しさが残っていたみたいよ。体質的にね。 一同 本当に自由でしたね。 田村 生徒の自主性を重んじていましたね。 堤 それで全然勉強せぇへんようになった(笑)。 斎藤 そらね、最初はいじめられましたよ。でも最初だけ。それからは仲良くなりましたよ。 青木 最初は、教室入ろうとしたら入れてくれなかったのよ。バット振り回したりして。 堤 この子ばかげたこと言う…と思ってこっちもカーッとなったりしてね。 青木 それはねえ。最初の二ヶ月だけでしたね。本当に最初だけ。 斎藤 楽しい高校生活でしたよ。 北村 北野に来て本当に良かったと思うのは、同級生に感心させられる人がたくさんいらっしゃったことですね。学力という面だけでなく、哲学にしろ文学にしろ皆様知識の幅が広くてね。 堤 幅広かったですね。 青木 「男の人たちにはかなわない」と思いましたね。刺激をずいぶん受けました。 斎藤 振りかえったら北野の3年間って本当に良かったわねえ。 田村 64期は4年間もおいてもらったしねえ。 堤 あんまり楽しいから「もう1年おらして」て頼みに行ったら、先生に「だめ。あんたおったら影響大きいから、出したる」って言われましたね。 一同 爆笑。