われら六稜人【第14回】北野に来た女生徒たち
    第4話
    大手前の誇りは捨てず
    …でも北野でよかった



    堤大手前には「大手前教育」というのがあって。うちらは大阪ではトップやと思って頑張っていたわけ。マシやと思てたのに北野に行ったらクシャッとやられてね。
    北村私の姉が大手前だったんですけど、大学のように講座制にして随分すすんだ形の教育してたらしいですよ。
    (編)女子の進路はどうでしたか。
    堤就職した人も多かったね。
    斎藤就職難の時代であったけれども、皆さんいいところに行かれたわねえ。
    堤「北野からやったら銀行でもどこでも世話してあげる」というのあったわねえ。
    (編)女子が大学に行くということについてはどうでしたか。
    田村両親は言わなかったけど、「大学行ってどうするの?」という親戚の人はいましたよ。
    斎藤行くものと思ってる人と、そうでない人といたわね。
    堤最初、女学校という感覚で大手前に入れてるわけでしょ。それが新制高校に変わってしまって、4年で専門学校に入れるつもりやったのに2年も遅れてるという感覚やったわけよ。女の人は20歳から23あたりが勝負という時代でしたからね。
    斎藤家庭によるのかもしれませんけど、うちはそんな雰囲気は全然なかったし、当然上に行くものやと思ってましたけどね。
    堤少なくとも大手前に行かせようというお家の方はね、やっぱり専門学校…たとえば府女専(大阪女子大)、牧野の女子医専(関西医大)、奈良の女高師(奈良女子大)なんかに行かしたいと思ってたのよ。終戦後ごちゃごちゃになって、経済的に苦しくて、東京になんかは行けませんでしたから。まあ一年違うと事情もちがうでしょうけど。
    田村先生に私たちの学年と一年上とではえらい違うと言われましたよ。64期は女学校の2年間→併設中学3年生→新制高校1年生と下級生がずっと無くて、高校2年生の時に初めて下級生が入ってきたけど…あの人たちは私たちよりずっと大人やったね。あっちはずっと最上級生でしたものね。
    堤でも64期の女子は可愛がられてたでしょう。
    田村ずっと下級生気分で、英語なんか上の学年の人に教えてもらったり。一年下の女子は、「水泳大会、男女一緒にするの嫌です」ってハッキリ言いはったものね。
    堤しっかりしてたわね。女子を召集してね、「なんで女の子だけこんなこと言われないといけないんですか」と言ってきましたから。男の人たちは64期の女子がおとなしかったから可愛がってたみたい。私たちは憎たらしかったみたいよ。それはよう言われましたから。
    (編)大手前女学校という看板つけて乗り込んできたからやないですか。
    堤そうなんよ。私達の期は張り切りガールが多かったと思うわ。
    (編)63期は3年間、64期は4年間過ごしたあと、出る時はどうでしたか。
    青木出る時は良かったのよねえ。
    一同北野に来て本当に良かったわよね。
    堤北野は自由でしたから。大手前は女子校の厳しさが残っていたみたいよ。体質的にね。
    一同本当に自由でしたね。
    田村生徒の自主性を重んじていましたね。
    堤それで全然勉強せぇへんようになった(笑)。
    斎藤そらね、最初はいじめられましたよ。でも最初だけ。それからは仲良くなりましたよ。
    青木最初は、教室入ろうとしたら入れてくれなかったのよ。バット振り回したりして。
    堤この子ばかげたこと言う…と思ってこっちもカーッとなったりしてね。
    青木それはねえ。最初の二ヶ月だけでしたね。本当に最初だけ。
    斎藤楽しい高校生活でしたよ。
    北村北野に来て本当に良かったと思うのは、同級生に感心させられる人がたくさんいらっしゃったことですね。学力という面だけでなく、哲学にしろ文学にしろ皆様知識の幅が広くてね。
    堤幅広かったですね。
    青木「男の人たちにはかなわない」と思いましたね。刺激をずいぶん受けました。
    斎藤振りかえったら北野の3年間って本当に良かったわねえ。
    田村64期は4年間もおいてもらったしねえ。
    堤あんまり楽しいから「もう1年おらして」て頼みに行ったら、先生に「だめ。あんたおったら影響大きいから、出したる」って言われましたね。
    一同爆笑。

    Update : Nov.23,1998