実は戦争へ行く直前に既に結婚をしていました。だから女房や子供を養うために何か仕事をしなければならない。それで、戦友の村山慶吉と2人で、荻窪の駅前で果物屋を始めたのです。津田と村山…あわせて“村田屋”。単純でしょ。でも、果物屋の仕事は大変です。朝早くから青物市場に行って競り落とし、木箱から一つ一つ取り出しては良いものと悪いものを選り分けて、それぞれの値段をつけていく。陳列もね…後ろに鏡を置くと数がたくさんに見えるし、いろいろ細かいテクニックがあったのですが、何分…素人商売でそんな面倒くさい小細工は嫌だったので、箱から出してそのまま適当に並べて…どれも同じ値段で売っていました。
そのうち、大学の友達や戦友たちの知るところとなり、遊びに来ては「旨そうやな、ひとつくれや」と言って勝手に食べていくようになりました。「売りモンや、やめてくれ」とも言えず、仕方がないので良いものだけ店の奥に取っておくことにしたのですが、そうすると店先には悪いものばかり並ぶわけでしょ。ある日それをお客にみつかって「その、後ろのやつ下さいナ」って言われて「あ、これは売り物ではありません」なんて言ってね…実のところは自分たちでめし代わりに喰ってたんですが(笑)…そんなことをしていて商売がうまくいくワケないですよね。或る日突然客足が途絶えて一人も来なくなりました。「これは変だゾ」と思って表通りへ出てみると、なんと入り口の角地で果物の叩き売りをしている露天商がいるではありませんか。そちらのほうが値段も安いし、呼び込みも巧くて繁盛していました。「何もこんな鼻先で対抗することもあるまいに…」頭にきた私は文句を言ってやりました。
「わしはそこの村田屋や。何も…わしんとこの鼻先で同じ果物を叩き売らなくてもいいやろ。明らかに営業妨害や。他所に行っておやり下さい」
そうすると相手はじっと私の方を見てこう言うのです。
「村田屋さん、あっしのことご存知ですか」
「果物屋!」
「果物屋には違いねぇが…あっしは尾津組の幹部をやってる土屋と申します」
尾津組というのは泣く子も黙る(?)関東きっての暴力団でした。
「何も…あっしは村田屋さんの商売の妨害をするためにココでやっているのではありません。このあたりは、尾津組舎弟の海上組の縄張りで、ここが“天ショバ”といって、商いをするのに一番いい場所として割り当てられているだけなのです」
そう、のたまうワケ。しかし、こっちも生活がかかっている。怯んでもいられず抗議すると、
「分りやした、こうしましょう。あっしらは夕方6時になったら引き揚げますから…その後、ここで村田屋さんが露天をおやりなさい。ここは、駅を降りた通勤客がみんな必ず前を通る一等地…6時頃になれば、みんな帰宅するためにここを通ります。あんな奥で店をやっていても所詮、売れ高は知れているでしょう」
随分と気っ風のいいハナシです。
「それじゃぁ、お互い共存共栄ということで…」と意気投合して、土屋のオッサンと手打ち式をしました。翌日から、きっかり約束通り…6時には“天ショバ”なるものを明け渡してくれましたね。