海軍予備学生の同期には、映画俳優の西村晃、茶道の千宗室、関西電力の小林庄一郎らがいました。私は横須賀の海軍航海学校で訓練を受け、卒業と同時に少尉に任官。駆逐艦「梅」の航海士を命ぜられました。
飛行艇には任官したての少尉が30余名、海軍中佐が1名、大尉が1名、後に動物作家で有名になった戸川幸夫さんと他1名の海軍報道記者も乗っていました。この事故で、学生気分の抜けきらない若い少尉たちの半分くらいが無駄な命を落としたのです。私も、まさか少尉に任官して翌々日に…いきなり太平洋を泳ぐことになるとは思いもしませんでした。
次なる受難は高雄での話。空襲に遭い、慌てて逃げ込んだ民家に…何と爆弾が命中したのです。全壊した家の下敷きになった私は、偶然にもちょうど梁と梁の隙間に身を守られて…かすり傷一つせず出てこれました。嘘のように悪運の強い人生です。そして、二度あることは三度ある…の諺どおり、最後は「梅」が撃沈されました。
当時、フィリッピンは孤立し、生き残った陸海空軍のパイロットがフィリッピンの北端にあるアパリという漁港に集結していました。本土では戦闘機を操縦できる人材に窮していたので、彼等を救出すべく特命を受け、駆逐艦「梅」は2隻の僚艦を従え、早朝未明に高雄の軍港を出港し、バシー海峡を南下しました。有名なアパリ作戦です。
出航前味方の飛行機3機が護衛をする…という連絡が入っていました。ところが、なかなかそれが現れません。しばらくして右舷はるか水平線上に飛行機らしき黒影が3点…こちらに向かってくるのが見えました。私はてっきり護衛機が到着したもの…と思い込んでしまい、航海士でしたから…それをそのまま艦長に報告しました。これが実は敵機だったのです。当時の日本の無線暗号はすべて米軍に解読されていたのでした。
護衛機を装った米軍機3機は、日本機を先回りして思う存分に「梅」と僚艦を攻撃しました。私はこの時の被弾で右下腿に弾片が貫通…血みどろになり動けなくなりました。「もはやこれまで」…艦内の機密書類の保管責任は航海士の役目でしたから、私はそれらを袋に詰めさせ、体に括りつけ、唯一残ったカッターという12人で漕ぐボートを下ろして乗り込み、「梅」を離れました。
「梅」の乗員280余名のうち、その半数近くはどうにか助かりました。 私は、この時の戦闘のおかげで戦傷病者手帳を持っています。障害名は「右下腿貫通爆弾々片創複雑骨折」と「左右大腿盲管爆弾々片創」です。左右の大腿に今でもこの時の破片が7つ…残っています。
後日談ですが…ハワイの税関でこの体内の破片が金属探知器に反応したんですね。税務官が怪訝な顔をしますから、同行していた弁護士仲間(編註:同窓会副会長・62期の山本次郎氏のこと)が英語で説明したんです。「この方は日本の元海軍将校である。あなたの国と戦った時に、あなたの国の爆撃を受けて…いまだ体内には爆弾の破片がたくさん残っている。すべてあなたの国のものである。」すると、その税務官…パッと姿勢を正して敬礼しましてね(笑)。