旧友、植田義男 |
しばらくして、そこへ52期の植田義男がやって来て「津田よ。こんなところにずっとおる心算か。百姓になると言うても、お前は『肥たご』すらようかつがんやろ。男は学問や」そう言って一晩中、説教されました。「今からでもいいから高等学校、受けろ」。
言われて勉強を始め、「一番易しい高等学校はどこや?」と探して、北は青森の弘前高校から南は高知の高校と、試験は受けたものの、案の定、不合格。この間ずっと植田がついて回ってくれていたのですが、どうやらこれは母の差し金のようでした。さらに母は「高等学校は難しいだろう…」と先読みして、植田と相談のうえ秘かに中央大学の予科の受験手続きまで取ってくれていたのです。「中央大学は弁護士を多く輩出している名門だ…」と聞かされて一路、東京へ。今度は兄が…私がどこかに逃げてしまわないように、つきっきりで受験することになりました。そして見事、中央大学に合格できたのです。高等学校に比べて随分易しかったのは事実ですが…(笑)。
中央大学の予科では成績優秀でした。ところが、昭和18年法学部の2回生の時に文科系の学生に対する徴兵猶予の制度が廃止され召集令状1本で海軍に入り、大竹海兵団から武山の海軍予備学生学生隊に入隊、極めて短期間の士官教育を受けたうえ、戦場へ行くことになったのです。時局は大学生をも戦場へ送り込まねばならないまでに追い詰められていました。