時の校長が長坂五郎といって師範学校出の先生でした。たぶんこれは結果的に偶然そうなったんだとは思いますが、京大や阪大出身の先生が次々に辞めさせられ、師範学校出の先生が代わりに来られたりしていました。
それに、講堂に新しいピアノを入れた時、古いピアノをこともあろうに校長官舎に移してしまったのです。「学校のピアノを私物化したり、評判のいい先生方を辞めさせたり…これは校長としてあるまじき行為である。速やかに校長を辞任いただきたい」そんなクレームをですね…普通は徒党を組んで団体で行くのでしょうけど、私は独りで校長室へと乗り込んだのです。
当時、私は制服の着用に抵抗し、痔病を理由に許可を得て、絣の着物、小倉の袴に下駄履き…という出で立ちで…。全校生徒の中で着物で通学しているのは私一人だけでした。“和装許可”と書いた大きな将棋の駒みたいな木の札を提げてね…。そら、目立ちますわな。このいでたちで、校長に辞任を迫ったわけです。
10日ほど経って、担任のヒロスケ(廣田先生)から突然呼び出しを食らい「君の放校処分が決まった。北野だけが人生やない。人生至る所に青山あり。これからが君の新しい人生だと思って気落ちせず頑張るんや。」そう…変になぐさめ混じりに宣告されたのでした。学業も芳しくないし素行も悪い。そのうえ校長室での一件がとどめをさして、遂に放校処分が決定した。私は「とうとう来るものが来たか」という醒めた思いで、その晩…親父の部屋へと侵入しました。「右の者、今般家事都合により退学致させ度く、この段お届けに及び候なり」親父の筆跡を真似た金釘流の筆で、そのようにしたため、親父のハンコを押して翌日、校長室へと乗り込みました。
例の着物姿で、私が懐へ手を入れた瞬間…長坂校長は一瞬ひるんで青ざめましたが、取り出したのが退学届であることが分ると、気を持ち直して私にこう言いました。
「いやぁ、津田君。君のような優秀な生徒が、学業半ばにして本校を去っていくのは誠に残念である。しかし、自分で決意したのなら致しかたない。とにかく頑張りたまえ」
これが母校との別れでした。それから長らく、弁護士になるまで北野に訪れることはありませんでした。
※先代の胸像
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次の朝、自宅の庭で親父に事の次第を報告しました。
「父さん、ちょっと話があるのですが…」
「何や?」
私が、改まって話をしたいと切り出す時にろくな話が無いのを親父は良く知っていました。
「北野を辞めることにしました」
「それはどういうことか?」
「学校のほうで『放校処分にする』と言われましたので、私のほうから退学届を出したのです」
「いつ辞めたのか?」
「昨日辞めました」
「退学届を出したと言うが…保護者の名前はどうした?」
「父さんの名前で出しました」
「印鑑はどうした?」
さすがに、こういうところが弁護士らしいのです。
「はい…ちょっと、借用して…」
「『印鑑盗用』やなっ。帰ってからゆっくり聞かせてもらう」
そう言い残して、その日も普段通りそそくさと仕事に出掛けたのです。