当時の北野では、成績の順に席順が決まっていました。上位の者は“壁付き”といって教室の一番後ろ側に陣取り、成績が悪くなるにつれて段々前にいって…最前列を“かぶりつき”といってバカにしたものです(笑)。
私は、入学した1年生の頃は…意外にも(?)壁付きでした。学校の規定で「年間100日以上休んだ者は進級を認めない」というのがあって、病気のためにその規定にひっかかったのです。それで2年生を2回やるハメになって…3年、4年へは順調に進級しました。この学年が一番長かったので、友人も一番多くいます。52期ですね。
だから、最近の同窓会名簿では52期のところに私の名前が載っています。昔は51期、52期、53期と…3つの期にまたがって重複して載っていました。ある先輩が「あれ。津田禎三という同姓同名の男が3期も連なって載っているゾ」と大変珍しがっていたので「それ、全部…私のことです」と言って解説しなければなりませんでした(笑)。ちなみに、51期、52期、53期と…この3期を通じて弁護士は私一人です。まさに独占企業状態です。
2度目の落第が決まった頃は、成績も悪かったし、喧嘩はするし…という状態でした。もちろん、学内なんかで喧嘩はしませんよ。通学途中の阪神電車の中でね…他校の生徒が顔を会わせると「お前、面きったナ」とか言って言い掛かりをつけてくるワケです。ま、こっちにもそれなりに理由はあったんですがね(笑)。
2度目の落第は「一科目でも40点以下の成績があったり、平均点が60点以下ならば進級は認めない」という規定のほうにひっかかったのです。これで53期に仲間入りして…歳が2つも開いてくると、自然と級友とも話が合わなくなる。成績は悪いし、そのうち学校にも行かなくなって。映画館や喫茶店に出入りしたり、喫煙しているところを教護連盟に現行犯逮捕されて…3度も補導を受けました。私より先に放校処分になった奴がいて…学校をサボっては、そいつのところによく転がり込んでいました。それが学校にバレて、いよいよ『通学帳』なるものまで持たされたんです。その帳面に、毎朝「何時何分に家を出ました」と母に印鑑を貰い、下校前には職員室で「何時何分、下校」という判を貰うのです。
しかし、それでも放校にはなりませんでした。決定的な事件はその後、起こったのです。