第5話●
十三
脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
ここは摂津国西成郡成小路村でした。大阪の中心から離れた北部にあったのですが、西日本から京都へ上る西国街道や神崎川・中津川・淀川に近く、さまざまな史跡が残っています。
さて学舎の窓から見える新淀川は、中津川を改修してできたものです。大坂市中へは淀川本流に寝屋川・大和川が流れこんでいたため、洪水の恐れがありました。そこで元禄時代には新大和川をつくって本流を河内国分から堺へ流しました。それとともに明治後半、中津川を改修して新淀川をつくり、淀川の水を市中に流さないようにしたのでした。中津川には橋がなかったため、大坂から北へ向かうには渡し舟で越えましたが、北野高校の付近には十三の渡しがありました。渡し場のあとは新淀川の流域内になっています。ただ渡し場のところにあった今里屋久兵衛の「あん焼」は、元の地から移っていますが、今も残っています。
なお十三の地名の起こりは分かっていません。西成郡の十三条にあたるとの説や淀から十三番目の渡しとの説などがありますが、確実なところはわかりません。 近くの加島は神崎・江口とならぶ淀川・神崎川河口の要衝でした。そのため藤原道長が高野山参詣の帰途に宿泊するなど発達した港湾都市で、遊女などもいて「天下第一の楽地」(遊女記)といわれました。また鍛冶が多く住み、近世中期には銭座がおかれ加島銭を鋳造しました。
この地の香具波志神社は古くから尊崇された神社で、倉稲魂神つまり稲荷を祭り、加島稲荷として知られています。近世中期、雨月物語・春雨物語などを書き、国学者としても知られた上田秋成が、社家の藤家時らに招かれて、40歳代の3年程を過ごしました。秋成は本居宣長とは仲が悪く、なかでも宣長の「敷島のやまと心と人とはば朝日に匂うやま桜花」という有名な和歌を痛烈に皮肉って、「しき島のやまと心となんのかの うろんな事を又桜はな」と歌いました。宣長は偉い学者ですが、私は太平洋戦争中に、宣長の歌によって、若者は桜のように潔くパッと散れなどと聞かされたので、あまりいい思い出がありません。秋成はどの国にもその国の個性があるといっており、宣長の国粋主義的なところをついていますが、さすがに国際都市大坂の人だと思ったものです。