小林一郎
(78期)
北野中学を卒業して上級学校へ進むことになるわけだが、ここで父親をはじめ周囲の反対に遇った。一つには虚弱とされていた新太郎の体を気遣っての理由からであり、今一つ、明治37・8年、日露戦争の頃の大阪では、一般に中学を出ていれば大したもので、それ以上を目指すのは跡を継がなければならない医者か弁護士、でなければ地方から出てきた役人の師弟くらいで、教育とか学問と言うものに対する考え方が現在とは随分違っていた。そのなかで父親の知人である浜野という相場師の意見が面白いので自伝の「櫻男行状」から引用してみる。
「そこはかの切り売りの学問で、その日を送る学校の教師に、人の子を教えるなんぞ、だいそれたことがいえるものではない、もっての他の沙汰である。学問なぞは、そのこころさえあれば何処でだってできる。この浜野など、全くの無教育ながら鉄管疑獄事件でつかまって、結局、無罪放免になるまでの獄舎の中で学問はした。無学の筈の私が浄瑠璃本などの仮名づかいの修正もすれば、頼まれれば額や掛け物の揮毫もする。地方に旅して思いつくままに架けた橋も相当な数に上っている。これらの橋に、すすめられても私の名前などつけたことは一つだってない。私はこれで、人間一人前の社会奉仕はしておるつもりである。 いまどきの学校など、まちがいのない小じんまりした給料取りの養成はできようが、人間の完成はできそうに思わぬ。私の子供は自分の名前くらいは書けねば困るから、中学へだけは通わせてはいるが、なるべく中学の教師たちよりは、食うためでなくやっている素性のいい家庭教師にたよるようにしている。折角はやく中学を卒えたあなたが上級学校にあこがれるなど、つまらぬことだ。私の家にいることはかまわぬから、気の向くだけ方々を見てまわって、学校行きは思い直して帰ることを私はすすめるネ。」