「宝暦八年定」大阪大学懐徳堂文庫所蔵 宝暦八年(1758)中井竹山筆 |
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
これは『懐徳堂内事記』に採録されているが、同じ享保11年10月の項には謝礼についても記されていて、各々分限に応じて行えばよいが、それでは貧しい者が出席しづらくなるだろうから、申し合わせにより五節ごとに銀一匁または二匁、講師への個別の謝礼は無用とし、貧しい者は「紙一折又は筆一対」でもよいとある。
三宅春楼が三代目学主に、中井竹山が預り人に就任した宝暦8年、書生の寄宿舎に次の定書【さだめがき】が掲示された。
この第一条の「書生の交りは、貴賤貧富を論ぜず、同輩と為すべき事」という言葉は、懐徳堂の自由な精神を物語ることばとして有名である。享保11年の壁書から一段とその色彩を濃くしていることがわかる。
懐徳堂の定約としては享保20年(1735)に制定されたものがあるが、宝暦8年に書き加えた「定約附記」では、学主の世襲禁止の解除、医書詩文集の講読の許可が記載されている。講義内容に関する規約については次回に述べる。
懐徳堂の寄宿舎には中井履軒の筆になる「寧静舎」の額が掛けられていた。寛政4年の火災後、同8年に再建されたが、その時には5つの寄宿舎が増設された。少なくとも二、三十人の収容が可能であったという。寄宿生の生活態度について、中井竹山が定めた規定「安永七年六月定」には次の8条が上げられている。
最後の預り人中井桐園も毎休日の朝に寄宿生を講堂に集めて、この条文を読み聞かせていたという。