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ほむら野に立つ〜私を救った北野生
広実輝子さん 1929(昭和4)年生まれ。大阪府立豊中高等女学校(現・桜塚高校)卒。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)国文科卒。豊中市立第四中学校で3年間国語科教師。後、家業(広実病院)に従事。 今年は戦後60年という節目の年であり、あの大戦を体験された年代層もかなり高齢化して、大空襲の語り部も年々減少して来ており、この8月15日を機会に若者達に再認識して頂きたいと思う次第です。 私を含め、60歳代後半で大阪近辺に住んでいた大半の方々は、あの空襲の惨禍を経験しています。そして特に当時中学、女学校(5年制)に在籍していた少年、少女達も国家の命令に従って軍需工場へ勤労動員されて行きました。 昭和20年3月に入って、広実さん達は(北野59期生も同じ)4年生で1年短縮して、強制的に学校を卒業させられ、引き続き動員先の工場で勤労奉仕を続けていたのです。大阪は3月13〜14日にかけて初めての大空襲があり、以来終戦まで、8回の大空襲がありました。その中でも6月7日の空襲は、B29が400機以上という最大の空襲があった日でした。 この日、阪急電鉄・三国駅の少し北側の畑の中にあった「石産精工」という小さな軍需工場で、動員されていた豊中高女生も北中58期生も戦闘機「紫電改」の生産に励んでいました。そして大阪市、豊中市に対して未曾有のB29による無差別焼夷弾、爆弾攻撃が始まり、それに続いて艦載機による執拗な無差別機銃掃射が始まりました。その結果、工場に動員されていた多数の中学生も女学生も地獄絵図のような惨状にさらされました。その時、村川一正さん(58期)も直撃弾で死亡しました。 その中で、広実さんは低学年の指導員として活躍中に、機銃掃射により瀕死の重傷を負って麦畑の中に倒れていた処、見知らぬ中学生の献身的な介護により、助けられましたが、途中からこの中学生とも別れてしまいました。 以後、彼の消息は全然分からず、その後終戦となり、広実さんも何とか一命をとりとめましたが、命の恩人のお名前も分からずに年月は経ち、遂に昭和24年にその君は、北野中学58期生の「湯本忠三さん」である事が判明し“火中に立ちてといし君”との感激の再会が実現されました(奈木進@66期)。 ※なお、広実輝子さんの次男、俊郎さんは六稜90期で、現在は医師です。 この戦時中のエピソードは、戦後、昭和50年8月15日に「大阪府立豊中高女学徒動員記録の会」から『ほむら野に立つ』というタイトルで出版され、一躍有名になりました。そして、平成9年3月に、大阪教育センターが中心となって、府下公立高校の国語副読本として編集された『大阪の文学(近現代篇)』の中に、「火中に立ちてとひし君はも」の題名で、当時16歳の少女であった広実輝子さんの体験記が収録されています。執筆については、現・北野高校教頭・鎌田俊一先生ら9名の方々が分担されました。 ・この副読本は現在も販売価格1,000円でお頒けしています。お問い合わせは長野タイプ(電話072-153-1966)まで。 ・もし、是非一読してみたい…と思われる方がありましたら、会館運営委までご連絡下さい。 ※お申し込み・お問い合わせはこちら → talkrelay@rikuryo.or.jp
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