【連載】大阪の橋


第13回●長柄橋(7)
長柄橋の復活

松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)

    長柄の地に再び橋が架けられたのは明治になってからのことです。
    明治18年測量の地図に豊崎橋という橋の名が見えますが、この橋は明治6年9月に私設の有料橋として架けられたものです。この地は大阪から吹田、高槻を経て、さらに北上する亀岡街道の基点になっていました。しかしその維持管理は、他の橋と同様に大変苦労があったようです。

    明治時代後半に行われた淀川の改修工事にともなって、豊崎橋も全面的に架け換えられました。この橋は明治42年に完成しましたが、橋の長さは川幅に合わ せて674mと一気に長くなりました。しかし幅は5.5mと狭いままでした。

    南側の流水部分には鉄製のポニー型のトラスが架けられていました。このトラスは明治7年に国鉄東海道本線の中津川橋梁として架けられましたが、淀川の改 修で架け換えられたとき長柄橋に転用されたものです。そしてこの時の橋から長い間断絶していた「長柄橋」という由緒ある名前が使われ、幻の名橋が千年を経 て復活したことになります。
    なお、この時建てられた親柱が北詰の堤防上に残されています。

    新淀川の開削によって、長い歴史をもった薬師堂村などが完全に消滅してしまいます。薬師堂は行基によって開かれたと伝えられる古いお寺ですが、堂のみが 柴島に移されました。戦後の調査で淀川の川底から平安~室町時代の遺物が見つかり、寺の存在が確認されています。

Last Update: Dec.23,1998

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