「享保十一年尼崎町一丁目水帳(尼崎町一丁目屋敷図)」【部分】 大阪市立開平小学校愛日文庫蔵 ※懐徳堂は北側、西から4軒目の道明寺屋屋敷地にあった |
富永仲基(1)
岸田知子 (78期・高野山大学教授)
- 富永仲基【ともなが・なかもと】は懐徳堂創設の中心となった五同志の一人である道明寺屋富永芳春の三男として正徳5年(1715)に生まれた。通称は三 郎兵衛、字は子仲といい、南関のち謙斎と号した。彼は、32歳の若さで亡くなるまでの短い生涯に、日本思想史上に特筆すべき独創的な思想を生み出した。内 藤湖南は大正14年の講演で「真に大阪で生れて、而も大阪の町人の家に生れて、さうして日本で第一流の天才と云ってよい人は富永仲基である」と述べている (『先哲の学問』)。
父の芳春は大坂の尼ケ崎町(現在の中央区今橋)で醤油醸造業を営んでいた。学問を好み、かねてより五井持軒や三宅石庵に師事していた芳春は、懐徳堂創設 に当たって自らの隠居所をその敷地に提供し、道明寺屋の手代をその支配人に据えた。また、中井甃庵が懐徳堂を官許の学問所にするための出願に江戸に行くと きは同行するなど、懐徳堂の創設と運営になみなみならぬ貢献をしている。当然、息子たちも懐徳堂で学ばせた。懐徳堂創設の年に10歳になっていた仲基は、 2歳下の弟定堅(号は蘭皐)とともに懐徳堂で三宅石庵に学び始めた。仲基はごく若いときに『説蔽』【せつへい】と題する書を著した。この書は今に伝わらないが、後に刊行された『翁の文』【おきなのふみ】によってその概略 を知ることができる。彼の独創である「加上説」の理論で儒教を論ずる書であった。加上説とは、後代に生まれた学説はその正当性を示すために、必ず先発の学 説を抜こうとして、より古い時代に起源を求め、複雑さを増すものだという考え方である。
古代中国の春秋時代の人々が覇者の斉の桓公や晋の文公を尊んでいたので、孔子はその上に「加上」して、より古い時代の周の文王・武王・周公を尊崇の対象 とした。孔子の後に登場した墨子は、文王・武王よりさらに古い禹を、そして墨子の後の孟子は禹より古い堯・舜を持ち出した。次に楊朱や道家が黄帝を、許行 が神農を言い出した。つまり時代が下るほど、逆に説く内容は古代に遡ることになる。
また、世子【せいし】が人の生まれつきの本性については善の人も悪の人もあると言い、告子【こくし】がもともと本性には善悪の別はないと言い、その後、 孟子がすべての人の本性は善であるとする性善説を、さらに荀子がすべて悪であるとする性悪説を唱えたのは加上によるのであって、仁斎も徂徠もそれに気づか ず末節を論じていると、仲基は批判した。
『説蔽』の論旨は儒教を誹謗したものではないが、当時の儒学者には孔子をおとしめる不遜なものと受け止められた。仲基はこの書が原因で石庵に破門された といわれている。事実かどうかは不明であるが、もしも石庵の存命中のできごととするならば、仲基が15歳ごろのこととなる。この論説を可能にする読書量も さることながら、思想史上の原理を抽出した早熟な天才ぶりに驚かされる。
また、破門が事実でなかったとしても、仲基が懐徳堂に学んだ期間はそう長いものではなかったようである。入門以後の懐徳堂との関係を示す資料は見つかっ ていない。三宅石庵に儒学の基本的手ほどきを受けた後は、その上に自らの思索を築いていったと思われる。しかし、常に学派間の論争の外にあって、歴史的視 点から論じた彼の研究姿勢は、朱子学であれ陽明学であれ自在に取入れ「鵺学」【ぬえがく】と称された三宅石庵のもとでこそ育まれたと見ることもできよう。
一方、仲基の弟で池田の荒木家に養子に入った蘭皐【らんこう】(1717-1767)、及びその子の李谿【りけい】(1736-1807)は長く懐徳堂との関わりを続けている。
墨子: | 春秋末~戦国初期の思想家。兼愛交利を説き儒家と対立した。 |
孟子: | 戦国時代の儒家の思想家。子思(孔子の孫)の弟子に学んだと言われる。 |
楊朱: | 戦国時代の思想家。徹底的な個人主義で知られ、道家に分類される。 |
道家: | 老子・荘子の説を中心とする学派。 |
許行: | 戦国時代の思想家。君主も労働すべきであると唱えた。諸子百家の内の農家。 |
世子: | 春秋時代陳の人。人の本性の善悪について論じたという。その著は現存しない。 |
告子: | 戦国時代の人。人性について孟子と論争したことが『孟子』に見える。 |
荀子: | 戦国末期の儒家の思想家。 |
仁斎: | 伊藤仁斎(1627~1705)。江戸時代前期の儒学者。古義学の祖。 |
徂徠: | 荻生徂徠(1666~1728)。江戸時代中期の儒学者。古文辞学を唱えた。 |
Last Update : May 23,2002