「墨菊図」大阪大学懐徳堂文庫所蔵 泉冶筆/中井甃庵賛 |
懐徳堂の講業
岸田知子 (78期・高野山大学教授)
- 初期の講義内容の変遷を見ていこう。官許懐徳堂開講に当たり、石庵は78名の受講者を前に『論語』学而篇と『孟子』梁恵王上の冒頭部の講義を行なった。 その講義録『万年先生論孟首章講義』からは学派にとらわれることなく、商業と儒学の融和を図った、町人の学校らしい学風がうかがえる。石庵時代は、講義を余り好まなかった石庵に代わって、日講(通常の講義)は助教の五井蘭州、並河誠所、井上赤水らが務め、テキストは朱子学の書と限定した。具体的には四書および『書経』『詩経』『春秋胡安国伝』(注*1)『小学』(注*2)『近思録』(注*3)をテキストとした。毎月の1日、8日、15日、25日を休日と決めていた。
二代目学主には中井甃庵が、三代目は石庵の子の三宅春楼が就任した。春楼は「四九の夜講(4と9のつく日の夜の講義)」で『大学』を講義し、五井蘭洲は 「二七の朝講(2と7のつく日の朝の講義)」で『易伝』を講義した。春楼は病弱だったため月六回の講義のみで、他には行っていない。
四代目学主に就任した甃庵の子の中井竹山は、初講義で『論語』を講じた。竹山は講業を立て直そうとして「二七の朝講」では『尚書』を講じ、昼には『伊洛 淵源録』『春秋左伝』の会読、夜講では『近思録』『大学』を講義した。これより休日を除く毎日、学主の講義が行われることになった。竹山時代の休日は毎月 の5と10の日であった。
石庵時代、日講とは別に同志が集まり学習会をしていた。これを同志会という。毎月15日(後16日に変更)『象山集要』(注*4)をテキストとしていたという。日講を朱子学に定めつつも、同志会では陸象山を選んでいることからも石庵の折衷的学問傾向がうかがわれる。この同志会は春楼時代は休会になっていたが、竹山が再開し、毎月13日に行われた。
官許懐徳堂開講時には日講の書は朱子学の書と規定した。その後、享保20年の定約でも四書五経、および道義の書以外は講義しないと規定。しかし、受講生 減少の折りには「学主の心得にて、人寄せのため、詩文等の講釈はくるしからざる事」と附言している。三宅春楼が学主就任の際の宝暦8年の定約附記でも講義 対象は四書五経に限定しているが、余力あれば詩賦文章や医術を会読したり、詩文の会を設けることは例外として認めている。竹山時代は詩会も定例で行われる ようになった。この背景には当時の漢詩の流行があったのである。
*1『春秋胡安国伝』:北宋の胡安国が著した『春秋伝』
*2『小学』:南宋の劉子澄が朱熹の依頼で編集した少年向けの教育書
*3『近思録』:朱熹と呂祖謙の共著。初学者用に北宋の学者の著書や語録から抜粋
*4『象山集要』:陸象山の文集の要約。陸象山は南宋の人。朱熹と学問的に対立した
Last Update : Apr.23,2002