懐徳堂とその周辺(12)


「宝暦八年定」大阪大学懐徳堂文庫所蔵
宝暦八年(1758)中井竹山筆

懐徳堂の学則

岸田知子 (78期・高野山大学教授)

    • 職業活動の前提として忠孝は重要である。講義はその主旨を説くのが目的であるから、書物を持たない者も講義を聞いてよい、やむを得ない用事があれば途中退席もかまわない。
    • 席次は武家方は上座と一応定めるが、講義開始後は身分によって分けない。
    • 入学については預り人の中井甃庵に申し出ること。
    • 書生はすべて同輩。席順は新旧・長幼・学術の深浅によって互いに譲り合う。
    • 寄宿生は私用での無断外出は禁止。
    • 寄宿生の謝礼は15歳から納める。
    • 行儀を正しくする。
    • 無益の雑談を慎み卑俗な談義は堅く禁止する。
    • 病気でないときには昼寝をしない。
    • 学業の余暇には習字・算術・詩作・訳文などに心がける。
    • 休日には軍書や近代の記録物などを読む。
    • 囲碁・将棋は社交や気晴らしには差し支えないが 休日以外の日中はしない。
    • 互いに配慮をし切磋琢磨する。
    • そのためにトラブルがあった場合は早々に申し出る。
  • 享保11年(1726)に懐徳堂が官許学問所となった時、最初の壁書【かべがき】が玄関に掲示された。壁書とは学則を書き出したものである。それは次の三条からなっていた。

    これは『懐徳堂内事記』に採録されているが、同じ享保11年10月の項には謝礼についても記されていて、各々分限に応じて行えばよいが、それでは貧しい 者が出席しづらくなるだろうから、申し合わせにより五節ごとに銀一匁または二匁、講師への個別の謝礼は無用とし、貧しい者は「紙一折又は筆一対」でもよい とある。
    三宅春楼が三代目学主に、中井竹山が預り人に就任した宝暦8年、書生の寄宿舎に次の定書【さだめがき】が掲示された。

    この第一条の「書生の交りは、貴賤貧富を論ぜず、同輩と為すべき事」という言葉は、懐徳堂の自由な精神を物語ることばとして有名である。享保11年の壁書から一段とその色彩を濃くしていることがわかる。

    懐徳堂の定約としては享保20年(1735)に制定されたものがあるが、宝暦8年に書き加えた「定約附記」では、学主の世襲禁止の解除、医書詩文集の講読の許可が記載されている。講義内容に関する規約については次回に述べる。
    懐徳堂の寄宿舎には中井履軒の筆になる「寧静舎」の額が掛けられていた。寛政4年の火災後、同8年に再建されたが、その時には5つの寄宿舎が増設され た。少なくとも二、三十人の収容が可能であったという。寄宿生の生活態度について、中井竹山が定めた規定「安永七年六月定」には次の8条が上げられてい る。

    最後の預り人中井桐園も毎休日の朝に寄宿生を講堂に集めて、この条文を読み聞かせていたという。

Last Update : Mar.23,2002

ログイン