懐徳堂とその周辺(11)


「中庸錯簡説」大阪大学懐徳堂文庫所蔵
安永元年(1772)中井竹山手稿

三宅石庵(3)その学問と人物

岸田知子 (78期・高野山大学教授)

    三宅石庵の学問は、一つの学説にとらわれることなく、朱子学や陽明学、仁斎学の良い点は何でも折衷して取り入れた。こうした石庵の学風は「その首は朱 子、尾は陽明にして声は仁斎に似たり」として、「鵺(ぬえ)学問」と言われた。鵺というのは頭は猿、胴は狸、尻尾は蛇、手足が虎に似ているという怪獣で、 正体不明であいまいなものを譬えていう。石庵のこうした学風こそ、日常生活に即した教養的儒学として、大坂町人の要求にかなったものであった。前述の『論 孟首章講義』はその一班を示している。
    やがて、懐徳堂は、批判精神に満ちた独自の学説を唱えた富永仲基、実証主義的合理精神による思想を展開した中井履軒や山片蟠桃、我が国最初の貨幣史を編 んだ草間直方などを生み出す。こうした幅広い学風を懐徳堂が持ち得たのは、第一代学主石庵の柔軟な姿勢の影響ではないだろうか。三宅石庵の始めた学説に中庸錯簡説(『中庸』の章の並び方に誤りがあるとする説)がある。もともと『中庸』は経書の一つ『礼記』中の一篇であるが、孔子 の孫の子思の著といわれ、孔子の教えを伝える書として注目されてきた。朱子は『中庸』を33章に分け、第1章は総論、第2章から第12章は子思のことば、 第13章から第21章は孔子のことばを引いたもの、第22章以下は子思が前段の意を「反覆推明」したものとし、注釈と解説を加えた。これを『中庸章句』と いい、四書の一つの『中庸』というときはこの『中庸章句』を指す。
    しかし、古代の文献である『中庸』を合理的に整理するには無理があって、朱子の説に疑問を持つ者も現われた。伊藤仁斎(1627~1705)はその著 『中庸発揮』にて自らの説を立てた。つまり、第16章と第24章の一部は孔子の言葉ではなく漢代儒者の言説が混入していると考え、第1章から第15章まで を『中庸』原本とし、第16章以下を別の文献とみなした。石庵は、仁斎の説に触発され第16章に注目し、この章は第24章の「故至誠如神」の次に置くべき が誤って混入したと考えた。これが中庸錯簡説である。五井蘭洲もこの説を支持し、懐徳堂の学説として伝えられていった。中井竹山は、この説に基づいて『懐 徳堂考定中庸』を作っている。

    石庵の人となりは謙譲質朴で英敏勇決と伝えられるが、門人たちの用意した講舎を引き払い、自ら借家したことは、その性格を表わすエピソードであろう。また、門人に対しては、人道の理や教学の趣きを述べるほかは他言することがなかったともいわれる。
    石庵は息子の春楼が病弱であったため、その成長後の生計のために返魂丹という丸薬を創製した。この薬は木村家の手で讃岐方面に販売され、家計はずいぶん 潤ったが、このためにいささかの悪評を得ることになった。俗にいわれる「鵺学」の内容も「首は朱(熹)、尾は陸(九淵)、手脚は王(陽明)の如くにして、 鳴く声は医に似たる」とも言われた。石庵には『医事傍観』という著書もあり現存している。

    石庵は享保15年(1730)、66歳で亡くなり、河内の神光寺(八尾市服部川)に葬られたが、この寺は含翠堂の土橋家の菩提寺であった。

Last Update : Feb.23,2002

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