「三宅石庵書状」大阪大学懐徳堂文庫所蔵 土橋道節に宛てたもの。中程に「去年当地大火、手前達も逢類焼候」とある |
三宅石庵(1)懐徳堂以前
岸田知子 (78期・高野山大学教授)
- 三宅石庵はその名を正名、字を実父、通称を新次郎といい、石庵、または万年と号した。寛文5年(1665)に京都三条通りで生まれた。石庵と9歳下の弟 観瀾【かんらん】は、町人儒者であった父の影響もあって、幼ないころから学問を好み、兄弟ともに浅見絅斎【けいさい】に入門した。絅斎は近江出身の儒学者 で、山崎闇斎に学び、崎門【きもん】の三傑の一人といわれ、京都錦小路にて学塾を開いていた。入門後何年のことかは不明であるが、石庵は絅斎から破門され た。その理由については不明であるが、師の説を守らず程朱の学をはみだしたからともいわれている。石庵は親の死後も家業を顧みないで学問に没頭。ついには財産を使い果たしてしまったが、それでも衣食を倹約すればまだ数年はしのげるといって、弟とともにひたすら机に向かい学問にうちこんだという。
元禄の初め頃、兄弟は江戸に出て学塾の看板をあげたがうまくいかず、石庵は数年で江戸を離れた。一方、木下順庵に入門していた観瀾は江戸に留まり、二年 後、彼の一文が水戸公の目に止まり召され、やがて彰考館總裁となり『大日本史』の編修にあたる。さらに正徳2年(1712)38歳の時、新井白石の推薦に より幕府に登用されるに至るのである。
さて、元禄10年(1697)、京に帰った石庵は、まもなく讃岐琴平の木村平右衛門(号は寸木)に招かれ、四年間その地で教授した。木村家は屋号を羽屋 といい、酒造を業とし、金刀比羅宮の別当を務めた名家であった。木村寸木【すんぼく】は、家業のため京や大坂に上ることも多く、石庵と出会ったのも京都で はなかったかと推測される。木村家はこの後、長く石庵のために後援を続け、寸木の意志は、彼の息子たちへと受け継がれた。
寸木は俳人として長い経歴を持ち、石庵が泉石と号して俳諧を詠むようになったのも、彼の影響と思われる。石庵の俳諧として「真白に真四角なり蔵の月」などが残っている。
石庵は元禄13年(1701)、37歳のころ、来坂する。木村家の手引きであったには違いないが、四国と大坂を頻繁に往来する商人たちによって石庵の名 が大坂に伝わり、彼を迎えようという機運もあったと思われる。石庵が最初に塾を開いた時、中村良斎(三星屋武右衛門)、富永芳春(道明寺屋吉左衛門)、長 崎克之(舟橋屋四郎左衛門)などがその門にあったという。かれら好学の有力町人がさっそく入門していることからも、石庵の来坂準備は琴平と大坂の双方でな されたのではないかと思われるのである。
また、この年8歳だった中井甃庵が、儒医である父に連れられ入門の挨拶をしている。甃庵が実際に石庵に師事したのは14歳の時であった。
さて、石庵が門弟を取って教授を始めたところ、日を追って入門者が多くなった。尼崎町二丁目御霊筋の石庵の住居では狭くなってきたので、正徳3年 (1713)、中村良斎、富永芳春、長崎克之、木村平十郎、木村平蔵等が計り、安土町二丁目に家を買い取り、石庵をここに住まわせた。木村平十郎、平蔵は 讃州琴平の木村寸木の息子である。
石庵はここを多松堂と名づけて講義を続けた。入門の徒も順調に増えていったが、この家屋の購入資金を提出した人々の中に「徳業の利益もこれなき人」がい る、そんな人たちの世話になりたくないと、享保4年(1719)、自身で高麗橋三丁目に家を借り移転した。このころには、備前屋吉兵衛や鴻池又四郎なども 入門して、多松堂はますます賑わいを見せていたが、同9年(1724)3月の「妙知焼き」と呼ばれる大火にて類焼し、所蔵の書籍や石庵の書きためた物も残 らず焼失してしまった。
Last Update : Dec.23,2001