懐徳堂旧阯碑 |
懐徳堂の創建
岸田知子 (78期・高野山大学教授)
- 享保9年(1724)3月に大坂を大火が襲った。俗に妙知焼きと言われるこの大火で被災した三宅石庵は、平野に避難し含翠堂に身を寄せた。実はこの時、五井蘭洲も病母を背負って平野郷に避難していた。蘭洲の母はこの月の末に知人宅で亡くなっている。石庵の門人たちが、平野滞在中の石庵を火事見舞いに、あるいは教えを受けるために訪れ、有志による合議と出資によって行われていた含翠堂の運営方法を目にすることによって、懐徳堂創設の考えを持つに至ったことは想像に難くない。
享保9年5月、もともと石庵の門人であった三星屋武右衛門・道明寺屋吉左衛門・舟橋屋四郎右衛門の3人に備前屋吉兵衛・鴻池又四郎が加わった町人五同志 が、尼崎町一丁目の道明寺屋の持ち家の表口6間半、奥行20間の屋敷を学舎として準備し、11月に初代学主として石庵を平野郷から迎えた。これが懐徳堂で ある。
場所は、現在の大阪市中央区今橋四丁目の日本生命本社のあるところで、ビルの南壁面に懐徳堂の碑が設置されている。この「懐徳堂旧阯碑」は大正7年に建 立された。その文章は、明治末年から大正にかけて懐徳堂顕彰に努めた西村天囚の手になり、書は懐徳堂学主を代々務めた中井家の末裔、中井天生による。
懐徳堂の名の由来には二、三の説がある。すなわち『論語』里仁篇の「君子懐徳、小人懐土(君子は徳を懐ひ、小人は土を懐ふ)」に拠るとする説、『詩経』 大雅皇矣の「我懐明徳(我、明徳を懐ふ)」に拠るとする説、さらに『書経』周書洛誥の「万年其永観朕子懐徳(万年其れ永く朕が子を観て徳を懐はん)」とす る説である。
Last Update : Sep.23,2001