懐徳堂とその周辺(5)


「五井持軒和歌遺稿」五井持軒撰、五井蘭洲手写。大阪府立中之島図書館蔵。
持軒の遺詠をその三男である蘭洲が整理・編集したもの。

四書屋加助【ししょや・かすけ】

岸田知子
(78期・高野山大学教授)

    大坂市中では五井持軒【ごい・じけん】が漢学塾を開いていた。持軒は、下河辺長流【しもこうべ・ちょうりゅう】に和学を学び、15歳で儒医を志して京都で向井元升に医学を、伊藤仁斎・中村りっしんべんに易斎に儒学を学んだ。この間、貝原益軒や三輪執斎・伊藤東涯らと交わった。寛文10年(1660)、30歳で大坂に戻り、享保6年(1721)に 81歳で亡くなるまで、淡路町一丁目や内久宝寺町などで塾を開き儒学教育に努めた。延保7年(1679)に出た大坂最初の案内誌『懐中難波雀』には「講尺師」として名が載っている。このことは、大坂において儒学者がまだ社会的に認めら れていなかったことを示している。持軒は、元禄期にかけての大坂の職業案内誌に一貫して記載されている唯一の学者であった。

    持軒は師弟関係にこだわらず、門人を朋友と呼び、一応朱子学を標榜するも、性や理気といった議論は好まず、四書(『論語』、『孟子』、『大学』、『中 庸』)を繰り返し講じていた。そこで、町の人は彼を四書屋加助と呼んでいたという。加助は持軒の通称。四書を屋号にするのが、いかにも商都大坂らしい。
    持軒は儒学だけでなく、『日本書紀』に精通し、和歌も嗜んでいた。彼の子が後に懐徳堂の助教を務める五井蘭洲【ごい・らんしゅう】であるが、蘭洲は父から学んだ漢学と和学を発展させることになる。

    さて、京都に生まれ、浅見絅斎【あさみ・けいさい】の門に学んだ三宅石庵【みやけ・せきあん】が、江戸、讃岐を経て、大坂で塾を開いたのは元禄13年 (1700)であった。その門人の多くは富裕な町人で、彼らは新しい講舎を建て、石庵を迎え入れた。大坂にも儒学を学ぶ機運が高まってきたのである。多松 堂と名付けられたこの学塾が懐徳堂の前身に当たる。

Last Update : Aug.23,2001

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