「含翠堂額」 筆:三宅石庵 大阪大学文学部国史学科蔵 |
郷学【ごうがく】
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
「含翠堂址」(大阪市平野区) 「環山楼」(大阪府八尾市) |
大坂南部の平野郷【ひらのごう】(現在の大阪市平野区一帯)では、郷の指導層であった末吉・徳成・成安・土橋・三上などの七家が、享保2年(1717)に含翠堂【がんすいどう】(最初は老松堂といった)を創設した。
これは元禄16年(1703)ごろ、豪農三上如幽の養子で京都で儒学を学んできた七郎兵衛(のちの土橋友直)が自宅にて月に3回、郷民の子弟を集めて儒学の書を講義したのに始まるというから、最も古い郷学の例といえよう。八尾(大阪府八尾市)では小山屋石田利清らが学塾を建て、含翠堂を訪れていた伊藤東涯【いとう・とうがい】(伊藤仁斎の子)を招いた。後日、東涯はここ を環山楼【かんざんろう】と名付け、「環山楼記」を書いている。享保12年(1727)のことである。しかし、運営方法や講義の実態はわかっていない。
また、久宝寺【きゅうほうじ】(大阪府八尾市西部)では戦国時代に渋川満貞が開いたという麟角堂【りんかくどう】を安井定重が再興し、やはり享保12年 に東涯を招いて講義を行っている。文政年間には安田恒庵が復興して、懐徳堂や混沌社【こんとんしゃ】(漢詩結社)から師を招いたという。
こうした学塾が多く創建されたことは、大坂近郊の富裕な階層の中で好学の気が高まっていたことを示している。
Last Update : Jun.23,2001