懐徳堂とその周辺(1)


「懐徳堂幅」 筆:三宅石庵(懐徳堂初代学主)
大阪大学附属図書館蔵

大坂の学問のめばえ

岸田知子
(78期・高野山大学教授)

    近代以前において学問といえばおおむね漢学、すなわち儒学を中心とした中国伝来の学術を指した。古代や中世においては、その学問の中心は奈良や京都に あって、大坂に学問の芽生えがみられるのは室町時代初期以降、明との貿易で栄えた堺においてであった。『昌平版論語』【しょうへいばんろんご】や『論語集 解』【ろんごしっかい】などを堺の町人が出版したり、京都の学問が堺に伝えられたりした。
    しかし、大坂としての特色を持った学問が登場し発展していくのは、江戸時代に入り、大坂が経済都市として成長するようになってからである。そして、経済 都市ならではの学問環境が、日本の教育史上特筆すべき学校「懐徳堂」と儒学史上独自なその学風、さらにいわゆる「町人学者」を生み出すことになった。
    また、江戸後期の大坂には、当時流行していた漢詩の結社や、西洋の天文学などを学ぶ洋学塾などの知的サロンがあって、懐徳堂の学者たちもそれらサロンとの交流を持ち、その学問内容に広がりを持たせることになった。このシリーズでは、江戸期の大坂で「学校」と呼ばれた懐徳堂とその周辺について述べていく。近代以後、大阪は学問的風気の薄い土地柄であるとの見方がさ れてきた。しかし、江戸時代の大坂は、嫁入り道具に漢籍を入れるほどの好学の町人層を多く抱えた町であったのである。そうした大坂の一面を知ることも、こ のシリーズのねらいである。
    なお、「大坂」の地名はもともと上町台地の北部を指していたのが、船場を含み、さらに近世前期に天満を合わせた地名となった。「大阪」の地名は、早くから混用されていたが、固定されたのは明治以後である。坂の字は「土に反る」と読めるので嫌われたと言われている。

Last Update : Apr.23,2001

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