笹部桜考(54)

笹部コレクション(20)《三熊派シリーズ4》織田瑟々【おだ・しつしつ】:作

八重伊勢桜図
【やえいせざくらず】
(1828年/文政11年)
法量:71.4×27.7<櫻に因む蒐集品控>より
昭和28年2月23日、大阪・有村忠雄書画店にて買入。
有村から、いかにも佳幅らしく報らせて来た品だが、ずいぶん前かきの画で、伊勢桜とあるが、並の桜色で松月か、楊貴妃を思はせるやうな花を描いてゐる。逆にこの時代伊勢桜といってゐた眞図か筆者の誤りかどうか判らぬ。ただ文献らし

これまで見てゐる画に伊勢桜は瑟々に限らずごく少ない。
この幅の採りどころはただ保存が極上である一点に盡きる。落款に文政戊子初夏とあるから文政11年、逆算126年前の画とは思へぬ丈けの美しい保存である。…(略)。

異牡丹桜真図
【いぼたんさくらしんず】
(1828年/文政11年)
法量:145.5×51.5<櫻に因む蒐集品控>より
昭和34年2月13日大阪有村忠雄書画店にて買入。
表装、色の濃い 丸表装で似合はぬが仕上げは極上で珍しく聊かの反りも見られず本紙の保存極良、縦4尺8寸の桜画は稀に見る大幅である。

杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員

    瑟々の作品にはほとんどといってよいほど、年記が書き入れられており、瑟々の画風の変化が明らかにわかります。彼女の<桜画>は、幹を下から上へと横に引 き重ねるように緩やかなS字の曲線を画面全体に描き、表皮には緑青(ろくしょう)で苔を表現している。花弁の形は偏平で、重なり具合は胡粉(ごふん)に少 し紅を混ぜ濃淡をつけている。葉は代赭(たいしゃ)と藍墨を用いて一枚一枚丁寧に描き、鋭く伸びた葉先が特徴であり、葉脈には鋭く伸びた葉先が特徴であ り、葉脈には細く金が施されている。
    画の署名には「彩霞堂」【さいかどう】とある。おそらく瑟々の画室(アトリエ)の名ではないかと思われる。

    織田瑟々【おだ・しつしつ】

      1779年~1832年(安永8~天保3)
      近江国御園村川合寺(現・滋賀県八日市市)生れ。名を政江。父親の血筋は織田信長の九男信貞を先祖として津田三位貞秀(のちに織田の姓に改められます)。瑟々は三熊露香を師とし、露香と共に新書画展に名を連ね、画家としては17歳(寛 政8年・1796)の頃画壇にデビューします。瑟々が22歳の享和元年(1801)頃、露香 が他界し、その後10年ほどの間の活動は途絶えてしまいます。
      31歳頃までは京画壇で活躍をしていたらしく、文化7年版「近世逸人画史」に“平安人”と記載がされています。彼女は2度目の夫・彦根藩士の三男であった 石田信章(婿養子として織田家に入る)との間には貞逸【さだい】という名の息子がいます。この頃35歳の彼女は寡婦となり、それ以降<桜画>への署名を 「織田氏女瑟々」又は「織田氏貞逸母」と記すようになります。その後、故郷の近江国御園村川合寺へ戻り、出家をし妹の八千代とともに寺を守り、中央画壇の 名声とは無縁の尼僧画家としてひっそりと<桜画>を描き続けて53歳の生涯で去ったのです。

      三熊派の中では瑟々だけが墓所の確認ができています(現在、滋賀県八日市市内・西蓮寺)。法名は「専浄院殿天誉快楽名桜大姉」とつけられており、見るからに“名桜大姉”と「花狂い」「桜狂」であったことを物語っています。

協力:西宮市笹部桜コレクション(白鹿記念酒造博物館寄託)

Last Update : Mar.23,2001

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