大阪倶楽部の有志を招いて (昭和8年頃) |
笹部桜スポット(10)
亦楽山荘 (桜の園)
(宝塚市切畑)
小林一郎
(78期)
- 明治45年、笹部新太郎は兄から譲り受けた武田尾の山林を桜研究のための演習林として整備、亦楽山荘と名付け以後の活動の中心となりました。名前の由来は 蘇東坡の詩の中の「此間亦有楽」から採ったものです。数十種類の桜を植えて、常時5~6名の園丁を置き、肥料、薬剤、接木、交配と研究を重ねました。桜と の関係を調べるために他の樹木も種類多く植えられ、また鳥類の研究も行い専門家の意見を聞いて色々な形の巣箱をこしらえて試したりもしています。花の時期 には大阪倶楽部の面々を集めて花見の宴を開いたりと戦前の亦楽山荘は充分な手入れがされていて華やかな「桜の園」だったようです。戦中戦後の混乱で随分と 荒れて(本文前述)その後も経済的年齢的な問題から往時の姿に戻ることはありませんでした。植えられていた桜の殆どは蔦に締め付けられて立ち枯れの状態で した。
ハイカーでにぎわう亦楽山荘 (水上勉の小説『桜守』にも度々登場する) |
笹部氏没後、宝塚市がここを買い取り、兵庫県の「ふるさと桜堤回廊(日本海と瀬戸内海を桜でつなごう、円山川と武庫川を結ぶ)」の中間地点として「桜の園 ハイキングコース」として整備、桜の植樹を始めました。大震災で予定は大幅に遅れましたが多くのヴォランティアの手伝いもあって一昨年オープンしました。 まだまだ若木ばかりですので「桜の園」になるには時間がかかりそうですが、気持ちの良いハイキングコースとして人気が有ります。
ハイキングコースから外れた山腹に残る山桜 |
笹部桜は久野氏没後に夫人が宝塚市に寄贈を申し出たものですが、既に植樹の計画が出来上がっていて夫人の希望通りに亦楽山荘小屋の傍らと言う訳には行か ず、武田尾の駅からハイキングコースの入口に通じる道路の並木の一本として特定できないまま植えられてしまったようですが、西宮市や木次町と違って笹部 氏・久野氏との直接の人間関係が薄いところでは致し方ないのかもしれません。数年後数十年後にその笹部桜が他を圧して見事に成長しているか、逆に他と比べ て見劣りするものか又は枯れているかも知れない可能性もありますが、いずれにしてもそれが笹部桜という種類の植物の実力であろうと判断できるケースでもあ り、将来が楽しみでもあります。
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Last Update : Aug.23,2000