笹部桜考(43)


北野高校に遺された笹部桜も久野氏が寄贈したものである
※校舎改築にあたって保存の決まっている植哉のひとつ

久野友博氏のこと(3)
(54期・1922~1995)

小林一郎
(78期)

    平成2年、久野友博氏は知人の紹介で島根県木次町(前述)へ桜の調査に赴いた。そこで見たものは町を挙げての熱心な桜に対する取り組みであった。明治の頃 からの伝統で何代も亘って町民は皆愛情を持って桜に接していた(木次町ではこうした町民と桜の物語を演劇に作って地元ばかりでなく数年前には東京でも上演 した)。翌年からは町の担当者が西宮の久野氏宅を頻繁に訪れ、久野氏から意見や知識情報ばかりでなく実際の苗木の扱いまでも学ぶというふうだった。昭和 62年に笹部新太郎に関する座談会の最後に「……私もこれらの桜の全国普及を志しておるんですが、六稜の同窓の中から笹部さんの遺志を継いで下さる方々の 出現を願望して、締めくくりの言葉とさせて頂きます。」(六稜会報No.20より)と言ってはいたが、数年後病を得て、笹部桜の行く末を考えた時に真っ先 に思い浮かんだのは桜一杯の木次町の風景だった。以下は平成4年に大阪造幣局と東京池上本門寺へ笹部桜を寄贈した時にそれについて日本経済新聞に寄せた久野氏の文章であるが、氏の基本的な考えが良く分かる。

    「……私が翁の事業を何とか継承しようと決意して桜研究を本格化したのは、翁の没後である。残された『理想の桜』を正式に学名『笹部桜』」として残すために親交のあった人々とはかり、昭和60年に園芸誌発表にこぎつけた。62年には兵庫県天然記念物の指定も受けた。

    接木と実生から笹部桜を基盤にした山桜の美しさを普及させることは、全国の9割を占めるソメイヨシノに代わる桜の存在を広く伝えると同時に、花だけを見る という西欧的な鑑賞方法への批判であり、学名のついている桜以外には価値がない、といった風潮への異議申し立てでもあると私は考えている。 翁の考え方は 分類学で品種を固定するのではなく、実生で新品種を作っていくことであった。桜は自家受粉せず、他品種との交配によって実ができる。当然実生で花が変わる のが運命ともいえる植物だからだ。

    大阪の桜の名所、造幣局の通り抜けは14日から始まる。翁の生涯の努力の結晶ともいえる笹部桜は東と西で人々の目を楽しませてくれるわけである。『箱根越え』が実現したのは日蓮宗総本山貫主、田中日淳上人と評論家、薄井恭一氏のお力添えのたまものである。

    後の世の 春を頼みて 植え置きし 人の心の 桜をぞ見る

    これは明治時代、『布衣(ほい)の農相』と呼ばれた農政家、前田正名の歌である。翁の足跡をたどりながら、私はこの歌に託されたゆかしい心を今かみしめている。」(H4・4・4日経、同日付朝日にもこの項記事あり)

    平成6年(1995)病床につき、秋に没す。享年72才。北野時代は全盛期のラグビー部員で一期下の弟(劉善夫氏55期)と共に「北中に劉兄弟あり」と全 国的に名を馳せたラガーでもあった。丹精して育てた笹部桜の苗のうち、遺志によって約350本(他にも権現桜、荘川桜、薄墨桜など100本)が木次町に託 された。残りは大部分が西宮市に、それから六稜同窓会(北野高校)、吉野町など所縁のところに分けられたのはこれまでに述べたとおり。もちろん京都東山に ある久野家の菩提寺にも夫人の手によって笹部桜が植えられている。

Last Update : Aug.23,2000

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