西宮権現桜 (ヤマザクラ系。肉厚、半八重、中弁、僅かに薄緑色がかる。 比較的根元から枝分かれする。若葉と花の色のバランスは絶妙) |
久野友博氏のこと(2)
(54期・1922~1995)
小林一郎
(78期)
- 昭和36年、久野友博氏は紀伊富田の熊野神社を訪ねた。笹部氏が全滅したという日本一の山桜「紀州権現平の桜」が本当に全滅したのかどうかを確かめるため だった。神社の桜ならいくら食料増産のためとはいえ参道はともかく境内までは斧を入れないはずだ、きっと1本や2本は残っているはずだとの考えからだっ た。現地に着くとはたして切り株の列の向こうにそれらしい桜木が3本残っているではないか。近くに住む人達に色々尋ね、実の採取を依頼し、写真を撮り、翌 年にそれらを持って笹部新太郎のもとに行った。もう無いものととっくに諦めていた権現平の桜が残っていた?当時新太郎は荘川桜移植成功で方々から取材、執筆、対談、講演でいそがしく、自分の目で確かめ るべく現地へ赴いたのは昭和38年の秋であった。最新式のカメラをフンパツして行ってはみたものの、実際は久野氏の撮った写真で見たよりもその荒れ様はひ どかった。20数年前の調査の時に知り合った人達は皆亡くなっており、数10本の残された桜も殆どが後に篤志家の手で植えられたものと判った。それらしい 3本がはたして権現桜かどうかは、その場で判断できる材料も人も無く、久野氏の手に入れた実が成長するまで待たねばならない。慣れぬ操作でロクに撮影でき ずに終わったカメラ同様中途半端な気持ちのまま新太郎は帰途についた。
久野氏宅に植えられた実は順調に成育し、その姿は幹、枝葉、花とどれも権現桜の特徴を備えたもので、本より実生ゆえ戦前笹部氏の見た日本一の山桜そのもの とは言い難いがその二世と判断しても間違いのないところとなった。久野氏はこの桜を笹部桜同様数多く増やした。一つには笹部桜を接木で増やすための最良の 台木と判断したためでもあった。
北山緑化植物園内のバイオ研究室の様子 |
平成になってから西宮市は植物生産研究センターで成長点培養というバイオ技術で一気に500本もの苗を作ることに成功し(同時に進められた笹部桜の方はう まく行かず)、市の花の代表格として「西宮権現桜」と名付け市内各所に植樹、ほかにも平安神宮や学研都市などへも植えられている。
平成6年には紀伊富田の熊野神社に里帰りしたのだが、こちらではもとの「紀州権現平桜」の名札が付けられ、地元「才野さくら会」の方々の努力で往年の桜の宮復活に向けて毎年その数を増やされている。
久野氏はまた権現桜のルーツをも探索しようとされたようだ。明治36年権現平に最初に植樹されたものは、南紀の山中にあった優秀なヤマザクラであったこと から、氏は数年に亘って紀伊山中熊野古道中辺路あたりの古木を調査されていたが、これだと確信できるものは見つからなかったようだ。
Last Update : Jul.23,2000