笹部桜考(36)

笹部コレクション(12)《三熊派シリーズ1》
八重山桜図【やえやまさくらず】
一幅(絹本着色)
寸法:縦128.2cm 横56.8cm三熊思孝【みくま・しこう】:作
六如【りくにょ】:賛

杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員

    <櫻に因む蒐集品控>より
    「昭和28年9月9日有村忠雄君宅にて買入。(中略)六如の賛
    桜花俗艶恨庸工 寫到半神獨此翁 極罷呉宮捲簾達 西施半醉倚微風

    六如庵詩鈔には極罷の代りに宴散の字を充ててある。十円の収入の心当てもない昨今。しかも桜文献に出した金高の最高に少々ためらったがどうふるものかろ買入る。 尺八は大きすぎると思ってゐたが持て帰って本床のかけてみるとさすがに堂としてゐる、萬朶山房文庫の雄さらに一品を加へた。」

    桜の花は俗でいう艶やかなさがある。並の画工はそれを恨んでいる。ここに桜を写生して、桜の花を神々しい美しさに描いている。それが出来るのは独り、この翁のみそれはまさに宴を終へ、中国の後宮で簾をまいている処に、西施が半分酔った風姿で微風のなかにいるようだ。

    <三熊派>とは

      京都において三熊思孝、妹の三熊露香、広瀬花隠、織田瑟々らが「桜花」だけをモチーフにして描いた四人の画家たちです。<三熊派>の桜画の特徴 は、様々な種類の桜を描いても同じ画面上に他の事物を組み合わせないという「桜花」だけの世界を作っています。また、桜の花を描き分けることに専念する、 現代の「ボタニカルアート」的な要素を多分に含みながらも、逆にそれとは限りなくかいり乖離してゆく方向性をもっており、彼らの特異性が画面全体に表現さ れています。
      <三熊派>の系譜は天保3年(1832)で途絶えてしまいます。しかし、その後坂本浩然、桜戸(宮崎)玉緒・跡見(桜戸)玉枝らによって『桜画』は描き残されています。

奈良八重桜図【ならやえさくらず】
一幅(絹本着色)
寸法:縦42.8cm 横67.5cm

三熊思孝:作

    <櫻文献控>より
    「昭和16年4月17日京都・中尾育三商店主持参。この間、京都で噂を聞いた。洛陽会に出た幅で中尾が落札したのだといふ。改装もしてあるし、水洗もしてある。好もしくないのだが将来のこともあるので止むなく買入。いにしえの 奈良のみやこの 八重ざくら
    けふ九重に にほひぬるかな」

    三熊思孝【みくま・しこう】
    享保15年~寛政6年(1730~1794)

      京都城西鳴瀧(現・京都市右京区)の生まれ。名を思孝、主計、おきみ正親。号を介堂・海堂または自ら「花顛【かてん】」(=「花狂い」「桜狂」の意。※「顛」とはいただき・先端又は癖・癖狂い)と称した。桜画の始祖である思孝は江戸時代を代表する人物伝『近世畸人伝・続近世畸人伝』の草案・執筆者でもあります。思孝は幼少より絵を描くことをこのみ、肥前長崎の画家・大友月湖の門人となり、麒麟や鳳凰・龍など架空の動物を描いていた。しかし、思孝は“見も知らぬも のを描くことは一時の目を喜ばせるだけであり、世のためにならない”に悟り、“桜が日本国の中で最も優れた花であり、他の国には存在しない、そう言う花を 描くことは国の民人のつとめ”と思い至ったです。
      思孝は40年間、毎春日本全国へと名桜を訪ね、多品種である桜の性質―気候や寒暖、遅咲きや早咲きかなど研究を調べ尽くした結果、代表的種類の桜36品を選び抜いたのです。

      この36という数字は和歌的意識から花を選び出すという「花撰」を「歌仙」に見立てて『三十六花撰』と名付けられたのです。これらの桜を彼は画帖『桜花三十六帖』(桜花帖)に描きまとめたのです。
      その後思孝の『桜花三十六帖』は、妹である三熊露香・広瀬花隠独自の『桜花三十六帖』(桜花帖)、松平定信の『浴恩園櫻譜』、屋代弘賢の『古今要覧稿』、 坂本浩然の『長者ヶ丸櫻譜』等へ影響を与えたのです。安永・天明・寛政に亘って思孝は絵画では優れた桜品を世に紹介し、又第一の桜の名所としての吉野観花 の手引『吉野栞』又は『吉野枝折』(寛政13年・1801)を出版、桜の保存にも力を入れていたため、この時代の注目を浴びる存在であったようです。

協力:西宮市笹部桜コレクション(白鹿記念酒造博物館寄託)

Last Update : May.23,2000

ログイン