移植する御母衣の桜の前で 庭正造園の丹羽政光氏と(昭和35年) |
笹部新太郎氏のこと(8)
(17期・1887-1978)
御母衣の桜[1]
小林一郎
(78期)
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- 高碕達之助(1885~1964)【略歴】明治18年高槻市に生まれる。府立4中(現茨木高校)在学中、政治地理の授業で「日本の将来は水産資源にかかっている」と教えられ、生きる道を決 める。首席で卒業後、水産講習所(現東京水産大学)に進む。東洋水産に就職。アメリカ、メキシコに研修。東洋製罐を設立。満州重工業副総裁。敗戦後戦後処 理問題に尽力する。吉田総理の要請で電源開発公社総裁になる。鳩山内閣、岸内閣で経済企画庁長官、通産大臣を歴任。バンドン会議、日ソ漁業交渉日本代表等 など。
氏について色々調べてみると常に国民のため無私の精神で事に臨んでおられたようだ。会社を起こしたのも、代議士になったのも。いまどきの保身と蓄財を旨と する政治家とはまったく違うタイプだ。外国との交渉も常に本音で対し、つまらない遠慮や手管は使わなかった。かえってそれが好感を持たれ、良い結果をもた らした。いまでも中国外交筋では高碕先生は一段と高いランクに位置づけられている。戦後初めて周恩来と話をした日本人としても知られる。茨木高校では川端 康成、大宅壮一とともに出身OBとして必ず出てくる人物である。
昭和35年の春、電源開発総裁の高碕達之助氏の訪問をうけた新太郎は一枚の桜が写っている写真を見せられた。樹齢400年はあろうかと思われる巨木であ る。「この桜が、いま、私のやっている御母衣【みほろ】のダム工事のために水底に埋められてしまうことになる。それが余りに惜しいので、できることなら何 とか活かして遺したい。活着の見込みはありますか?」。桜に限らず古木巨木の移植は難しい。「自信はありませんナ」「…絶対に駄目ですか?」。絶対と言わ れると反骨精神が頭をもたげてくる。「絶対などという言葉は、こと生き物に関する限り私は使いたくありません。…費用もかかりますが…枯れてもともとな ら…」役人嫌いの新太郎の受け答えにこれでこの話が終るのはよくある相談のケースなのだが、高碕氏は一言「万事あなたにお委せしますから早々に移植にか かって下さい。一万人の労働力と、最新の機械類は何でもありますから」と言われて慌てたのは新太郎の方だった。73歳で高血圧の心配をしながらの御母衣通 いが始まった。現地へ行ってみると写真で見た桜の他にもう一本巨木が残っていた。42トンと38トンのどちらも同じエドヒガンという品種の二本の移植となった。この ニュースが流れると、金は要らないから是非やらせてくれという園芸業者が現れた。豊橋市の庭正造園の丹羽政光氏だ。最初はぎくしゃくとしていたが後には丹 羽氏と笹部氏がうまく協力して移植作業を進めることができたのは、桜に対する欲得を離れた愛情からであろうか。丹羽氏は工事中も移植後も頻繁に現地を訪 れ、少し身体の不自由になってきた新太郎に代わってアフターフォローも万全に行なった。工事の一番の難関は枝切りや根回しではなく42トンの桜を吊り上げ 1キロの坂道を自走するクレーン車のためのしっかりとした道路作りだったという。
難工事が終り、あとはうまく活着するかどうか翌年の春を待たねば結果はわからない。笹部新太郎、丹羽政光、高碕達之助ほか関係者はただ祈るばかりだった。
Last Update : Jan.23,2000