笹部新太郎氏のこと(5)
(17期・1887-1978)
小林一郎
(78期)
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- 古代より日本の文芸・伝統芸能に表れたる「桜」は山桜のことであり、昨今氾濫しているソメイヨシノでは断じてないのであるが、古歌の味わいにもソ メイのイメージを重ねるしかないような現状はまことに憂うべき。
- 学者は顕微鏡の視野しかなく、造園業者は金でしか判断できない。
- 役所、役人はその場限りの事勿れ主義で長期的な展望を持たない。植樹まではしても日常的な管理などアフターフォローには意見も 予算も持たない。
- 大阪造幣局「通り抜け」の管理指導
- 江若鉄道近江舞子の「千本桜」の植樹
- 奈良公園「三社の森」の管理植樹
- 高槻「金龍寺」の桜植樹
- 三重県湯ノ山温泉の桜植樹
- 奈良県橿原街道沿い15キロに山桜を植樹
- 吉野山の桜の管理指導
- 信貴山麓に苗圃を造園する
40代も半ばを過ぎて、新太郎は武田尾の実験演習林のほかに京都向日町に「桜苗圃」を作った。研究段階から脱して、実際に良種の桜を広めようと言う自分の 考えを実現するための桜の生産場所である。それまでの研究から「このままでは日本の桜は滅びてしまう」という危惧を感じた新太郎は「桜に贈る弔辞」(大阪学士会講演)、「名桜巨桜の保存についての 批判」(東京さくらの会講演)、「日本桜滅亡論」、「桜につれなき時代」(中央公論掲載)、「桜を亡ぼす桜の国」(文芸春秋掲載)などで活発に意見を述べ たが、要約すると……
「桜苗圃」を得て新太郎はそれまでの「桜を見てまわる」生活から「植えてまわる」生活へと移っていった。主なところを挙げると……
これらの事業は多彩な人脈の中で、鉄道会社や県庁部門のトップとの繋がりから進められたもので、特に大軌(今の近鉄)との関わりが目に付く。
ソメイヨシノ一辺倒になっていく日本の桜を何とか本来の姿にしようと、新太郎は採算を度外視して貴重な山桜の苗を各地に植えたのだが、(以下自伝より引 用)「……その他の桜を求めてもいまでは心のままにたやすく得られぬのにくらべて、ソメイの方は苗木の寸法、その数量、全く思いのままで、希望の数量さえ示せ ばたちどころに手に入ること、足袋会社の足袋よろしくの実状である。その上に値段も一番安い。
……ソメイヨシノの是非については、ずいぶん長い間、年々同じようなことをくりかえして論議しているが……こんな水掛け論議をする代りに、何故にソメイが 拡まるかの根本理由を考えて、これに劣らぬというより勝るほどの桜を創り出せばいいと思うし、これが独りよがりのできぬ相談でなく、山桜のよさを喪わせず にソメイの成長力にも劣らず、若木にも花を咲かせるなど、私はすでに十七、八年も前にややこれにちかい苗木を作ったが、さて、これにしてからが、ソメイの 仲買で暮しをたてておる業者からは、たしかに邪魔者になる訳で、いまのままでこの種の苗木を殖やすのは事実においてはむずかしい。現に私は戦前にこの苗木 ではないが、優秀な山桜の実生苗圃を前後三回、戦後に一回、一夜のうちに枯死させるといった迫害を受けた忘れがたい苦い経験がある。いい桜苗を大量に作っ て公の場所に大がかりの寄贈をされたのでは業者の営業が成立たぬというのであろう……」
資産家の新太郎にとって、業者の嫌がらせなどもう少し後になってみれば可愛らしいものであったろうと思われる。日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争も雲行きが 怪しくなってきた。
Last Update : Oct.23,1999