笹部新太郎氏のこと(4)
(17期・1887-1978)
小林一郎
(78期)
- 父親が亡くなった後、笹部家の家督は長男の栄太郎が継いだ。彼は膨大な資産の故にかなり放埓な生活を送るといった罠にはまってしまったようだったが、父親 の言葉どおり新太郎にも旅館ができるぐらいの立派な家を建て、食うに困らないだけの資産と桜研究に使えるようにと持ち山の一部(全体の十分の一)を分け与 えた。また「弟には政治をやらそうと思っている」と常々人に話していたが、そのとおり新太郎をどういう手蔓を使ったのかは判らないが犬養毅の下に送りこ み、新太郎は数年間犬養毅の秘書として全国の演説会場を回る生活を送った。しかし2+3=5と言い切れと教わった新太郎にとって2+3をゼロとも八百とも 言わなければならない政治家の世界に永く住める訳が無く、しばらくして元の桜研究に戻ってしまった。もしそのまま政界にいたら五・一五事件の奇禍に遭った かもしれない。兄から譲り受けた武田尾の山を「亦楽山荘」と名付け桜研究の演習林として整備する。 (現在この地は宝塚市の所有となり、ハイキングコースとして整備されている)新太郎のやりかたは、学者の頭と造園業者の手足を使ってと言おうか、両者の中 間的な方法であった。お互いの良い所を採り合わせたというよりもお互いの足らないところを補うと言うやり方で、地位や金の心配をせずに時には趣味人の道楽 的発想を元に、四角な道を斜めに突っ切るような言動は、学者からは無視、業者からは敵視される結果を度々招いた。
梅子夫人と(大正13年) |
大正9年、33歳で結婚。相手は旧庄内藩主酒井伯爵家長女の梅子、音大出の美人、社交界の華と騒がれた才媛だった。日本での最初の女性ゴルファーとも言わ れる。度々新聞の社交欄に登場、話題を振り撒いた。妻の影響を受けたのか新太郎もこの頃にテニス、ゴルフ、乗馬を始めるが「生来、運動の不得手な私はどれ も上手く身に出来なかった」。夫婦の間に子供はなく、後に離婚。
翌年、兄が死去、選定家督相続人となった新太郎は多くの家作の管理という慣れぬ仕事に戸惑ったことと思われる。(旧民法下、兄の遺児が成人するまでの養育 の責任や遺産の使い道の制限などがあった)
帝大卒の肩書きの他に政治家や華族との交流、社交界に繋がりを持った新太郎は桜研究の折々の成果を発表する多くの機会を得ることともなった。専門学会に登 場することはなかったが、東京さくらの会(渋沢栄一、後藤新平らが発起人)、大阪学士会など幅広い各界のトップメンバーがあまり利害関係無く集まる場で話 をすることが多くなった。
ひたすら多くの桜を見て歩き、資料を集め、実際に接木をし、園丁を育てて20年が過ぎた。「桜のことなら笹部に任せろ」と言われるようになった時、新太郎 は40代も半ばになっていた。
Last Update : Sep.23,1999