笹部桜考(2)笹部新太郎氏のこと(1)


(17期・1887-1978)

小林一郎
(78期)

    桜の名前となった笹部新太郎(17期)は明治20年1月15日に大阪市北区堂島船大工町(現堂島1丁目)で大地主の次男として生まれた。

    翌年に母親を亡くし、山羊の乳で育てられ、その所為かか細い少年と言われていた。西天満小学校、盈進高等小学校、堂島中学(在学中に芝田町に移転、北野中 学となる)、第七高等学校造士館を首席で卒業、東京帝国大学法科大学政治学科へと進んだ。笹部家の先祖は古く大江山の鬼退治で有名な源家の四天王の一人で ある卜部季武で、卜部、浦部、篠部、笹部と攝津多田の地に連綿と続く名家であり、彼の父親はそのことを非常に誇りとし、新太郎少年にも幼い頃からよく言い 聞かせていたという。北野中学を卒業して上級学校へ進むことになるわけだが、ここで父親をはじめ周囲の反対に遇った。一つには虚弱とされていた新太郎の体を気遣っての理由から であり、今一つ、明治37・8年、日露戦争の頃の大阪では、一般に中学を出ていれば大したもので、それ以上を目指すのは跡を継がなければならない医者か弁 護士、でなければ地方から出てきた役人の師弟くらいで、教育とか学問と言うものに対する考え方が現在とは随分違っていた。そのなかで父親の知人である浜野 という相場師の意見が面白いので自伝の「櫻男行状」から引用してみる。

    「そこはかの切り売りの学問で、その日を送る学校の教師に、人の子を教えるなんぞ、だいそれたことがいえるものではない、もっての他の沙汰である。学問な ぞは、そのこころさえあれば何処でだってできる。この浜野など、全くの無教育ながら鉄管疑獄事件でつかまって、結局、無罪放免になるまでの獄舎の中で学問 はした。無学の筈の私が浄瑠璃本などの仮名づかいの修正もすれば、頼まれれば額や掛け物の揮毫もする。地方に旅して思いつくままに架けた橋も相当な数に 上っている。これらの橋に、すすめられても私の名前などつけたことは一つだってない。私はこれで、人間一人前の社会奉仕はしておるつもりである。 いまどきの学校など、まちがいのない小じんまりした給料取りの養成はできようが、人間の完成はできそうに思わぬ。私の子供は自分の名前くらいは書けねば困 るから、中学へだけは通わせてはいるが、なるべく中学の教師たちよりは、食うためでなくやっている素性のいい家庭教師にたよるようにしている。折角はやく 中学を卒えたあなたが上級学校にあこがれるなど、つまらぬことだ。私の家にいることはかまわぬから、気の向くだけ方々を見てまわって、学校行きは思い直し て帰ることを私はすすめるネ。」

    そして大学進学に際して父親が打ち明けた話が「進学を何のかのというのは、決して学資を惜しむためではない。ただ、学校を出たために月給取りになって、い つのほどにか卑怯な男になり下がってしまい、立身出世もいいかもしれぬが、それがために心にもあらざることをしたり言ったりすることになる。これでは何の ための学問やら判らぬが、いまの世の中は大体そうなっている。2+3を5と信じながら男らしくまさに5だと言い切れぬでは立身も出世もつまらぬでは無い か。どうせそう長くもない人間の一生を、せめて5だと言い切れることは仕合せである。
    自らのこころの命ずるがままの言動のできないのは、その因は月給を取ることに根ざすのだから、大学へは行くがいいが月給取りになるというのなら進学はやめ てくれ。その代わりに月給は取らずとも、一生どうにか暮らしてゆけるだけの物は遺しておく。どこまでも月給取りに成ってくれるな。そして白と信ずれば、誰 にでも白と言い切れ。これは何物にも替えがたい愉快なことだ。かたくなな意見として聞かずにいてくれ。これが二歳やそこいらで母に死なれて母の顔すらもし らぬお前への親の慈悲と思ってくれ。」
    というものであった。

Last Update : Jun.23,1999

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