【連載】大阪の橋


行基の像(近鉄奈良駅前)

第31回●豊里大橋(1)
高瀬大橋【たかせのおおはし】

松村 博

(74期・大阪市都市工学情報センター理事長)

    奈良時代に活躍した僧・行基は信者を率い、各地で様々な土木事業を行いました。要害の地を巡り、橋を架け、堤防を築きました。そのことを聞いた人々は皆 やって来て協力したということです。日本の仏教は導入当初から国家仏教の形をとっていましたが、7世紀後半になると、民衆仏教の発展が見られるようになり ました。道昭やその弟子の行基は国是をおかして民衆への伝道にあたり、国家から弾圧を受けた時期もありました。民衆の日常活動に密接な土木事業を興すこと は民衆を仏縁にあずからしめる宗教活動であり、事業そのものが民衆から歓迎されるものでした。『行基年譜』などの資料によりますと、山城国乙訓郡に山崎橋を、相楽郡に泉大橋を架けました。そして摂津では、高瀬大橋の他、長柄、中河、堀江の3橋を 架けたとされています。橋を架けることは寺院の建設や布施屋の開設などと密接な関連をもつ宗教活動の一環でした。山崎橋と泉大橋の位置はほぼ特定されてい ますが、摂津の4つの橋がどこに架けられていたのかよく分かりません。この内、高瀬大橋は現在の豊里大橋の近くに架けられていたと推定されています。行基 が宗教活動として建設したいろいろな施設を地図上で検討してみますと、生駒山から伊丹の昆陽【こや】に至る道が開かれていたことが想定できます。その重要 なポイントが淀川を渡るところに架けられた高瀬大橋だったというのです。


    高瀬大橋架橋想定地点

    明治末期に行われた淀川の大改修によって川の流路がすっかり変わってしまっていますので特定するのは難しいのですが、古い地名や式内社の位置などから高 瀬大橋は今の豊里大橋のやや上流部あたりの旧河道に架けられていたと推定されています。

    守口市に式内社の高瀬神社が残り、現在では淀川敷になってしまっていますが、それ以前にあった橋寺村という地名は行基が建てたとされる高瀬橋院と同尼院 の位置を想定させます。これらの寺院が橋を管理する役割を担っていた可能性も考えられます。しかし今となってはその証拠を見いだすことは大変難しいことで す。

Last Update: Sep.23,1999

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