【連載】大阪の橋


現在の淀川大橋

第29回●淀川大橋(5)
淀川大橋

松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター理事長)

    西成大橋が架設されて以来、阪神間は著しく発展しました。殊に大正3年に起こっ た第一次世界大戦の後の好景気によって、沿道には工場などが次々と建てられ、車馬 の通行が激増しました。それにもかかわらず道路幅は4~6mと、旧来のままでしたから混雑が激しく、道路を拡幅してほしいという要望が高まりました。大正 8年になって大阪府は調査を開始し、兵庫県とも協議をして阪神国道改修の計画をまとめまし た。こうして総工費約540万円の計画案が府会で認められました。この事業によって西成大橋の架け換えが行われました。事業が進められる途中で、 路面電車が設置されることになったり、関東大震災の経験から耐震設計の見直しが行 われるなどの変更を加えながら、橋は大正15年8月に完成しました。

    淀川を渡る部分の長さは約731m、幅員は20mと一気に広くなりました。中央に幅5.5mの電車軌道をもち、両側に1.8mづつの歩道がとられまし た。河川中央部の6径間は32.9m、両側の12径間は21.9mのスパン長になっています。橋脚と橋台は鉄筋コンクリート製ですが、基礎として中央部の 4基には1橋脚につき4本の鉄筋コンクリート製の井筒基礎(外径3.6m、深さ21m)が沈められ、他の橋脚の基礎には合計約8000本の落葉松及び米松 の杭(末口25cm、長さ9.1m)が打ち込まれています。

    上部工の中央部は上路式の単純ワーレントラス4列で構成され、他には鋼単純桁が 用いられています。工事報告書によりますと、総鋼重は約4500トンで、鋼板は主として国産(八幡製鉄所製)でしたが、型鋼は国産のものが少なく、主に輸 入材が用いられたとされています。そして橋の工事費は中津運河の小橋の分を含めて約246万円でした。

    架橋地周辺は、橋の工事中に大阪市へ編入となり、西成郡という地名がなくなりま したので、西成大橋という名前の根拠がなくなってしまいました。新しい橋は淀川筋 では破格の規模をもつものになったことから、淀川大橋と名付けられました。

    淀川大橋は、現在は国道2号の一環として建設省近畿地方建設局の管理になってお り、阪神間の重交通を支え続けていますが、戦前から続いた地盤沈下の影響によっ て、橋面が堤防より相当低くなってしまいました。このため橋の両端部には高潮や洪 水の時に水が入ってこないように、閉鎖用の鉄扉が設けられています。

Last Update: Aug.23,1999

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