第27回●淀川大橋(3)
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター理事長)
- この地にも明治になって初めて橋が架けられました。野橋と名付けられた橋は右岸の野里村より出願され、明治9年4月に落成しています。橋の工事に際して対岸 の塚本村との間で協定が結ばれています。その内容は、橋は野里村の出願によって架けられるものであるから、橋本体は野里村の責任で施工するが、東岸(左 岸)は塚本村の領地であるから東岸の橋台と取付道路は塚本村で工事をする。その代わり、月のうち1日、11日、21日の3日間の橋賃銭(通行料)を塚本村 が徴収するというものでした。 そして出水などの非常事態になれば双方協力して橋を守ることが約束されています。このように両村の話し合いによって、共同経営で維持されていましたが、 明治38年8月、淀川の改修に伴って河道が付け替えられたために撤去されてしまいました。
現在では中津川の河道を示すことは難しくなっていますが、野里の商店街の道が旧中津川の右岸に沿っていたことになります。その商店街に面して「の橋 野里の渡し跡」と彫られた小さな石碑が建てられています。
新淀川の開削が進む中で、塚本村は一時的に新旧の川に挟まれ、中ノ島のようになってしまいましたし、鷺洲村も新淀川に分断されて一部が取り残されること になりました。また新しく架けられた十三橋や西成大橋へも距離があったため塚本村の村長の個人名義で渡しの設置を願い出ます。そしてこの渡しは塚本の渡し と呼ばれ、大正7年まで続けられました。
Last Update: Jul.23,1999