「原子爆弾に通じる…あれほど痛めつけられたものを、まだやる気か?中曽根、ケシカラン!」と言うことになった(笑)。ところが、中曽根さん…アッという間に予算を通してしまうわけです。凄かったですよ、あの当時の中曽根さんって。ボクは非常に好感を持ってました。「あぁ、この男なら日本も助かるな」とも思ったけどね。総理大臣になってからは、いまひとつパっとしなかったけどね。若い時の中曽根さんは非常に魅力的な人間だった。
彼はアメリカなんかへ行ってね。ウラン開発の事情なんかを調べてきて、ごっつい専門家なんですよ。それが地質調査所に現れてね「お前のところでやれ」ってわけ。その予算たるや…だいたい普通、調査所とかっていうのは年間予算を申請するでしょ。それが大概は減らされてくるわけ。ところがさ、この時ばかりは要求もしていないのに「これだけ使え」って積まれたわけだから気味が悪いよね。
結局、調査所でもすったもんだして「やるべきである」と「断るべきである」の二つに分かれてしまって、それで組合運動まで起こったんだから。ボクは賛成派だったけどね。原子力(爆弾)に通じるかどうかは後の問題であって、日本国内にウランがあるかどうか…っていうのを調べるのは日本の地質調査所の任務であろう。少なくとも「あるか/ないか」っていうことは、調べなアカンというのがボクの考え方だった。しかし一般論としては、それが戦争に通じるから「やるのは良くない」というのがその当時からあったんですよ。
その年の地質学会は秋田で年次総会が開かれて「政府のウラン予算に参画する地質学会員は除名」という声明まで発表した。そういうムードだったね。その時から日本国内におけるウラン開発というのは…広島/長崎の体験があるだけに…非常にこだわってるんですね。これを未だに解決していない。精神的なこだわりが非常に多いんだけど…もうちょっと上手にやるべきだと僕は思うんですけどね。
そのウラン調査のおかげで(?)、大型コンピュータが導入された。ある種のボクの夢だったね(笑)。3部屋くらいをブチ抜きで改装して、でっかい部屋を作ってね。空調は効いているわ…そこに入るには靴を脱いでスリッパを履けっちゅうんですよ。白衣着て入れと(笑)。もう大変なものでした。
今みたいに、小さい3.5インチのフロッピーなんかありませんでしたからね。でっかいテープがギギィーッて回ってるの。当時は紙パンチから磁気テープに移行する頃でね。とにかく巨大なおもちゃだった、今と比べるとね(笑)。でも、それがとても高価なものだったから、なかなか買えませんでしたよ。それが今、個人のテーブルの上にのるなんて、当時は思いもしませんでしたよ。
さぁ、現地調査。ボクはその頃、若手の最前線にいましたからね。ジープを買ってもらい、岡山から鳥取までセスナで飛ぼうってことになった。アメリカでやってることが日本でできないことないだろう…って、民間の航空会社に相談したら「やったことないんですけど」と言われた。第一号ですね。
音頭取りは片山さんという部長だった。ガイガーカウンタっていう計測装置を買ってきて…指向性を持たせるために2cmくらいの鉛の板で巻くんです。それに上からベルトをかけてね。「お前、若いから持て」っちゅーわけですよ(笑)。それが重いの!それをセスナに乗せてね。モニターがあってそこに映るようになってた。これが最前線のウラン調査だと言ってね(笑)。
それをやってると、人形峠あたりにあるっていうことがだんだん分かってくるんです。3、4回は飛びましたね。予算は結構あるわけだ。中曽根さんがくれたから。
ある日、調査中に小包が届いたんです。開けて見ると真っ赤な粘土が入ってた。アメリカ帰りの(日系二世の)パイロットからのもので…結局、彼はあとでウラン会社を興して有名になった人なんですが…彼は以前から個人で(!)、日本のウラン探しをやっていたんです。その人が「これを調べてくれ」といって送ってきた赤粘土…その中身は今までボクらが考えてきた鉱物のタイプと全く違う、粘土質の塊だった。それにガイガーカウンタを当ててみると、ガーッと反応して鳴るんですよ。
それを受けたのが東郷さんといって後にウラン開発(株)を興した人ですけどね。「すげーな。これ、どっから来てんやろ」って言って。分析依頼書には産地などを書く欄があるんだけど、記入はない。「産地はどこですか」と問うと「それは言えない」と言うんだよね(笑)。「じゃあ、分析できない」と言って2、3日ほったらかしにしておいたんだけどね。
東郷さんが「だいたい分かったゾ」って言うの。郵便で送ってきたからね。鳥取県三朝【みささ】局の消印があったんですよ。そこは正にボクらが注目していたポイントの一つだった。それで「三朝へ行けー!」と急遽、出張命令が出ました(笑)。
三朝温泉に泊まり込んで調べたんです。三朝には小鴨という小さな鉱山があって、昔からラジウムが出るといわれていた。その辺りがガリガリ鳴るというので、くまなく調べたんです。そしたらある日の夕方、三朝の峠をジープで走ってたら、ガリガリと鳴るじゃないですか。周囲を懸命に探しましてね。それが新しい「人形峠タイプ」と呼ばれるウランで、池に解けて沈殿したものだったのです。これが後にカナダでのウラン探査に役立つんですけどね。
今までのタイプは「ベイン(脈)タイプ」といって鉱山を掘って行って、ウランの鉱脈を探しだして、そこからウランを産出する方法だった。もう一つはアメリカなどの古い地層で、その中で特定の層だけが含ウランであるとかね。ところが日本のウランはもっと新しいんですね。
ウランというのは、例えば花崗岩やいろんな岩に散らばって存在するんです。岩石が崩れた時に、水と一緒に解けて川になって流れ、池に泥と一緒に沈殿するんですね。それが干上がった場合に、層となって堆積するわけ。だから粘土みたいなタイプはまだ岩石になっていない…固まっていないものなんです。その小包のウランがそういうタイプのものであることが、だいたい分かってきた。当時はそんなことは本にも書いてないし、誰も知らなかったんですがね。