当時、育英会っていうのがあってサ、東大の学生は無試験で育英資金をくれたんですが…それは月に2,000円。だけど、5〜6,000円は無いと足りなかった。それで家庭教師をしたら1人教えて500円でしょ。2,000円稼ごうと思ったら4人も教えなきゃいかん。これは馬鹿ばかしいと思ったンだ。
たまたま『英文毎日』か何かの英語新聞で「マッカーサーシェル、GHQで通訳を求む」という広告を見つけてね…今から思うと本当に心臓が強かったと思うンだけど…それを受けに行ったンですよ。そしたら二世が出てきてサ「What is your name?」て聞くので「My name is Den Fujita.」と答えた。そしたら「OK, what time is it now?」て聞くから、時計見ながら答えると、それでもう「OK」…滅茶苦茶な試験でね。そうして入ったら「おまえ、通訳だ」ということで【INTERPRETER】って書いてある腕章つけさせられてサ。
ところが、兵隊が何を言っているか…ガラの悪い英語で全く判らんのですよ。だから将校に「全然わかんない、悪いけど…ここに泊まらせてくれないか?」て頼んだンです。「夜通し、兵隊と一緒におらしてくれ。そうすれば彼等の英語に慣れるから」と。それで野戦病院のような部屋のベッドをひとつ充てがってもらって、そこにしばらく寝泊まりすることにした。
そうしたらね。その間「何食ってもいい、ただし外へは持って出るな」と。何しろ…その頃、進駐軍の外では、雑炊を喰うにも行列に並ばないといけない…それでも喰うモン無くて皆、買い出しに行ったり…惨澹たる状況だったからね。
それでGHQの中でサンドイッチを食べたら…また、これがね。今でも日本のサンドイッチていったらパンのほうが分厚いでしょ。向こうのは肉のほうが厚いんです。大きい缶には並々と牛乳が入ってまして…それらが机の上に山ほど並んでいる。しかも沢山余ったのを夜9時頃になったら全部パァーっと捨てよる。そして新しいのが運ばれて来て…。通訳ですから「それを自由に何でも飲み食いしていい」と言うンです。
そうして半年くらいした頃でしょうか。だんだん営内の英語が判るようになってきた。別に難しいこと言ってる訳じゃない、同じことを言ってる訳ですから…聞こえなかった英語が聞こえるようになってきたんですね。そうなると「目が開けた」って言うかね…。
僕はアメリカ人は一種類で、そんなにいろんな人種があるなんて思わなかったンだけど…いろんなのがいるンだ。アメリカ人もユダヤ人も同じ白人だと思っていたら、アメリカ人はユダヤ人のことを「ジュー、ジュー」っていって軽蔑しているンですよ。「あいつらとは話するな」って。逆に、ジューのほうは「あいつら頭が足りない…志願兵で殺し屋になっている奴はパァーだ」って言うんだね。
確かに…「お母さんに手紙書いてくれ」って頼むンで、それをタイプライター持ってきて「Dear mother…」から始めて、そいつの言う通り打って出してやるんです。で、返事が来ると今度は「おまえ読んでくれ」と。「おまえ、日本で元気にやってるか?」なぁんて、そういうコトをずいぶんやりましたからね。
これは面白いな…と2年半、GHQで働いているとね「やっぱりもっと外国を見てみないとダメだ」と痛感したンです。昭和30年代の初めなんて…世界の情勢なんて分からないのじゃないの。これでは学校卒業して勤めたってしかたない…と思って。その頃、進駐軍にPXって言うのがありましてね。兵隊の生活必需品を輸入しているんですが、贅沢品は輸入してなかった。
例えばね。壁付きのエアコンなんてのはPXには売ってなかったんですよ。そのことを将校に言ったら、「おまえが輸入してPXに納めろ」と。電気髭剃り器なんかもね。それで、PXの特別枠を貰いまして…その枠が何でも輸入できるンです。その枠を使ってハンドバッグなんかを輸入したりしてね。
テレビのブラウン管は僕が初めてドイツから輸入したんですよ。ベルリンオリンピックが昭和11年、1936年にあったでしょ。あの「前畑ガンバレ!」の…。あの年にね、ドイツじゃ既にテレビ放送してたって言うんです。昭和11年ですよ。その頃、日本ではテレビなんか全然知られていなかったですよね。そして戦後、僕がドイツのテレフンケン社でブラウン管を作っている…ということを知って、そこから大阪の早川電気(今のシャープ)に14インチのブラウン管を50本納めたンだ。シャープはそれで日本初のテレビ受像機を作ったんですよ。
そんなコトでしたから、僕は1日3回服を着替えていたんですね。朝は東大へ行き、昼から銀座2丁目のフジタ&カンパニーをやってましてね。夜は進駐軍で通訳、泊まり込みでね。ハッハッハ。それで朝、時間が無い時なんかはジープで送ってくれたんです。進駐軍の服を着て…GHQって大きく書いてあるんですよ。ところが大学の門のところで松本善明(57期)のような共産党のやつがいっぱいいてね。「おまえ何だ?入っちゃいけない」と言うんです。それで学生証みせて「今日は授業に出るのに時間がないのでジープで送ってもらったンだ」と。そんなことよくやってました。共産党のやつも「おまえ、大学へ来るときくらいは学生服を着て来い」というコトでおさまってね。でも金儲けはせないかんし、忙しかったねぇ。
当時、国家公務員の給料がひと月1,000円、育英会がひと月2,000円なのにね…(まもなく国家公務員の月給も1,800円になりましたが、それじゃ生活はできなかった)…その時にね、通訳は1万円だったんです。今の感じでいくと、100万円くらいじゃないですか。そのうえ喰うモンはみんなタダでしょ。それで僕…酒も大好きなんだけど、GHQでボトルのキープもできたンですよ。外へ出てそれを飲んだりしてね。その頃から…なんて言うかな…別に、喰うには困らなかったな。
通訳で入った金をポケットに入れてね。太宰治らとよく三鷹で飲んでいたんです。後に津島代議士の嫁さんになった人も、その仲間にいましたね。大宰は、しょっちゅう女を連れて来ていて…ある日(編註:昭和23年6月13日)その女と帰る段になってね。雨が降って玉川上水が溢れそうで危ないという。僕らは遠回りして行くように勧めたのに、太宰は玉川上水のほうを通って帰ると言って聞かなかった。その日に死んだンですよ(編註:昭和23年6月19日に発見された)。みんな入水自殺だと言ってるけどね、あの位の水かさで死ねるワケがない。あれは情死ではなく溺死だと思うよ。相当、酔っぱらっていたからね。