岸田知子 (78期・高野山大学教授)
仲基は、この「加上」の原理を、膨大な量の文献を読了した結果として生み出したのではない。10代半ばにてすでに考え出されたことからみても、そのことは明らかである。思想発展の原理をまず打ち立て、それに基づいて思想の分析研究をするという画期的な研究方法を仲基は実践してみせたのである。
また、仲基は『出定後語』において、「異部名字必ずしも和会しがたし」、もしくは同一趣旨の表現を数多く用いている。これは、たとえ同じ言葉であっても、誰が、どの時代に、どのような状況で言ったかによって、意味に違いがあることをいう。仏典の漢訳は時代によって違うのだから、これらのことを理解していないと仏教の研究はできないと考えたのである。
また、仲基は「国に俗あり」といい、思想に国民性、民俗性があることを指摘した。儒教や仏教といった外国の思想、しかも幾世代にもわたって展開してきた思想を理解する上で、言語の正確な理解や、その民俗性の把握が欠かせないものであることは、現在では自明のことであるが、当時としてはこれも画期的な発言であった。
仲基は続いて『翁の文』を著した。和文でつづられたその第一節では、今の学者は神仏儒三教の一致を唱えたり、あるいは是非を争ったりしているが、道とすべき道は三教を超えた別のもの、すなわち「誠の道」である。仏教はインドの教え、儒教は中国の教えである。日本には日本の神道があるが、今の日本の道ではない、と述べている。ここで説かれる「誠の道」は儒教の実践道徳そのままであり、一方、仏教や神道にも説かれる社会の常識的な規範である。後世に付け加えられた「加上」の部分を取り去り、それぞれの思想の出発点を見た時、どれもその時代、その国に合った「あたりまえ」の常識的規範から成り立っていることに、仲基は気づいたのであろう。
仲基は『出定後語』を延享2年(1745)11月に刊行し、その3ヵ月後に『翁の文』を刊行した。両書はほとんど並行して書かれてきた。『翁の文』刊行の半年後の延享3年(1746)8月28日に、仲基は32歳の短い生涯を終えた。生来の病弱の身に、二書の執筆はこたえたであろう。不幸にして同年6月に3歳の娘を亡くしたことも、心身に災いしたかもしれない。才能を若くして開花させ、散り急ぐような天才の人生であった。