われら六稜人【第7回】わたしは好奇心のかたまり

第3展示室
主婦から社会へ

    ノロケはこれくらいにして…当時の女性の大学進学率は非常に低かったですね。わたしは子供の幼稚園でPTAの会長を頼まれたんですが、その理由が、母親で大卒が1名、短大卒が2名しかいなかった…という風な内輪話をアトで聴かされました。当時は北野高校卒業というだけで良い就職口も多かったですから。男子でも就職組が結構いたんです。廊下に求人票の紙が一面に張り出されて、アレコレ…会社の品定めなんかしたものです。

    大学を受験するためには「進学適性検査」を受けておかなければダメでした。わたしはこれを受験していなかったのですが、どうしても大学に行きたくて。猛反対する母を北原先生のバックアップと父のとりなしで、どうにか「京女」の家政科に行けることになったのです。

    北野から京都女子大に行ったのはわたしが最初だと思います。自分が言ったことはどうしても最後まで貫き通したかったので、お小遣いや学費は全額自力で、ア ルバイトと育英会の奨学金で賄いました。大学の友だちはわたしの奨学金が出る日を知っていて、その日はみんなに田舎うどんを御馳走する習慣になっていまし た(笑)。

    この奨学金は、教職に就けば返済しなくても良かったんですが…大学卒業後すぐに結婚したものですから、10年かかってキッチリ返済しました。母は学費を出 さなかった代わりに「よく頑張ったネ」と、結婚する時に輿入れ道具をどっさりとつけてくれました。これが新婚の部屋に入りきらず、急遽、庭に掘っ建て小屋 のような8畳間を建て増してようやく収まった…というエピソードがあるくらいです。

    わたしが生活評論家になった出発点は家族のためでした。安全なものを食べさせたいというこだわりからです。初めのうちは「手作り」のうどんを始め、色々な食品を作ってみましたが、すべてを手作りすることは不可能でした。そこで、消費者の立場にたった、心配のな い食品作りを、企業に働きかけることで実現しようと思いたったのです。その頃、ちょうど日本で初めて「神戸生活科学センター」ができまして、わたしは運良 くそこで勉強することができました。

    ここで一通りの勉強を終えて、卒業試験ではトップでした。ところが、その施設の教育担当課長サンから「あなたは大阪府民ですから…兵庫県のこの施設でこれ 以上、面倒を見るわけにはいかない。ご遠慮願えないか。」という宣告をされたんです。わたしはどうしても割り切れませんでした。それで、センターの所長さ んに直談判をしたんです。

    「わたしの評価点が90点で、二番の方は60点…。これだけ勉強したいと思っている人間を、大阪府民だからといって排除されるんですか? 県内だけでモノ を考えていて良いのですか? 安全なものを食べたいと思う気持ちは兵庫県だけの問題ではないはずです。これからの日本全体の問題ではないのでしょうか?」

    必死に申し上げたわけです。この訴えが認められて、わたしは無事この施設に残り、引き続き勉強させて戴きました。修了してからは「生活科学促進グループ」で活動を続けてきました。

    昭和47年当時、生活科学促進グループでは公害問題や食品の安全性について取り組んでいました。わたしは「食品添加物取扱主任者」の資格を取得して、さら に国家試験である「公害防止管理者」の女性・第1号にもなりました。厳密に言うと、もうひとり女性はいらっしゃったんですが、企業の研究所に所属されてい たので、「主婦」という意味ではわたしが初めてだったのです。どうして一介の主婦がそんな資格を取得したのか…ということが話題になり、各新聞やテレビ局が取材して下さいました。そうこうするうちにNHKから、生活 と経済情報の「土曜ポスト」というテレビ番組に出演の依頼がありました。その後、大阪市や大阪府の審議会にも出るようになったのです。

    ある時、番組で「天然ガス化」について、大阪ガスの方にいろいろご説明いただきました。その中で「設備投資のためにガス代が上がる」ということでしたの で、わたしは「それじゃあ設備投資に要した費用が回収できた段階でガス料金は下がるんですね?」と、リハーサルでは打ち合せしなかった質問を本番の時に投 げかけたのです。その方は回答に困り、大汗をかいて困惑されてしまったのですが、こんなやり取りが視聴者には好評で、以後テレビやラジオを合わせると約 20年間レギュラーでお世話になりました。

Update : Mar.23,1998

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