シーン1
広島、原爆、大阪へ
- 1940年(昭和15年)、母の出身地、呉で生まれました。父は海軍に行っていましたが、出身は広島市の山奥の方、いまは安佐北区、当時は安佐郡久地村。 山の頂上、三国という集落でした。父の実家が誰もいなくなる、誰か身内が戻ってきて家を守ってほしいというので、母が乳飲み子の私を連れて、呉と三国を 行ったり来たりしていました。なかなかそれもたいへんで、そこに住みついて慣れない百姓をすることになりました。母の父が定年退職をしたのを機に手伝って くれるというので、親子三代で暮らしていたんです。原爆が落ちた日には母の母、おばあちゃんもきていて、母の妹もおばあちゃんの面倒をみるというので同居 していました。その日、5歳の私は具合が悪く、囲炉裏のところでごろんとしていました。縁側が遠くに見える。そしたらぴかっと光って爆風で障子がばあーっと倒れるわけ ね、何ごとかなと思った。おばが私を背負って防空ごうに連れてってくれました。そのとき、空にいろんなものが舞い上がってましたね。広島の山の上ですけ ど、木や枝にさまざまなものがひっかかっていました。爆心地から25キロです。夕方、ほとぼりがさめて家へ戻ってくるとき、洗濯ものが干してあって、白い シーツやブラウスに黒い線がおちているわけよ。母が「あら、黒い雨が降ってんだね」っていいました。というわけで私も母も被爆者手帳は持っています。
父は海軍だからその時はどこにいたかわかりません。南方で船が轟沈されたんじゃないかということで、しばらく消息がわからず、戦死じゃないかといわれてい たんです。それが海を泳いで泳いで助かった。そのときの記念の時計だ、そんな時でも動いていたんだというので私にくれました。長いこと持っていましたよ。
父は復員したものの、広島に戻ってこなかったんです。たまに家にきたときに、母に離婚してくれといったのが小学校3年の2月。母が泣いているので、「私の ためにお父さんと別れることができないというなら、心配いらないよ」といったんです。母は思いきって実家の呉に引き上げた。4月から呉の学校へいったけれ ど、母も親のところでずっと生きていくわけにはいかないしということで、やむなく大阪の父のところに同居したということなんです。
大阪へ移ったのは1950年、4年生の1学期、ひと月ぐらい過ぎてたんです。十三の東、木川小学校です。転校生だというので挨拶をしました。ちょうど学級 委員を決める日だったので、転校生というのが印象深かったのか学級委員になっちゃったんです。転校生というのでちやほやされるとこあるでしょ。昔ってそん なもんなんだよね、それまでずっと学級委員やってた女の子をずいぶん傷つけたんだなあってわかったのは、ずっと後になってでした。
Update : Dec.23,2000