第4営業部 スランプは4年周期で
商売のほうは、物の無い時代で大変でしたが実際、何とかなりましたね。「やり繰り」の妙というか(笑)。無いモノは何とかして集めましたよ。セールスマンですから、とやかく言い訳はしてられません。 お得意さんのほうは…いろいろ考えた末に銀行に絞りました。大阪系の3銀行だと北中の先輩や友人が数多くいましたからね(笑)。 店鋪も大阪で一番大きな店を作りまして、銀行に商品を納入する機会に恵まれたことで順調に売り上げを伸ばして行けたのです。人間関係を大切にすることはビジネスの鉄則です。友人もありがたい存在で、建築関係のことなら北野の同期の坂内君に、歌舞伎のことは和田君に、という具合です(笑)。そうやって、みんなに助けられながら、事業を発展させることができました。 『関学茶道部5周年』記念誌の時もそうでした。紙がなくてね。都合するのが大変だったのですが、やはり友人・知人のおかげで巧くいきましたよ。 中身を見て下さい、いろいろなところから智恵を拝借しています。当時としては珍しいことでしたが、広告なんかも貰ってきたりしてね。 |
開業当時の店内の様子 現在の池萬堺筋ビル(中央区南本町)
単なるハト時計と思う勿れ。 |
|
|
別の「仕事」に熱中するのです。これまでにも色々やりましたが、昭和35年前後には「人相」をやりました。やりだすと凝り性ですからね、徹底的にのめります(笑)。そうこうしていると、本業の難問も自然に開いてくるものなんですよ。同じ頃、家族旅行で正月に熊野本宮を詣でまして「蘇民将来」という厄除けを目にしました。6センチくらいの小さな六角錘のお守りなんですが、何とはなしに 素朴で不思議な魅力を感じて、物好きがこれを頂いて帰ったのです(笑)。これが祇園さんにもあるんですね。長野にもありましたし、東京にもありました。こ れが僕の民俗学への第一歩でした。 ある時、福井県武生のある神社で、それは見事な金色の木彫天神が、年始行事の「どんど焼き」で惜し気もなくくべられている光景を目のあたりにしました。不 思議に思って「なぜ、燃やしているの?」と尋ねましたら「社寺の軒下のそこいらじゅうに土人形が捨ててあるよ」という。これは何とか保存できないものか。 「今、集めとかなアカン…」いかにも物好きの発想でしょ(笑)。わが国の人形文化を守りたい…これが古人形との出会いでした。 普通のコレクターだったら自分の足で1体1体集めて回るのかも知れませんが、僕の場合は各地にデボ(集積所)だけ造って、そこへ現地の人を動員して集めて貰うわけです。 土人形は本当によく集めたと思います。時期や場所はその時々で異なりましたが、たとえば僕が東北地方で集めた時は江戸期のものでした。 |
「からくり大黒さま」のヒントとなった からくり人形
|