第3営業部
屋号を守る
~九代目の責任感
- 北野から関学へ進みました。家業のこともあって、そこで会計学を学んだわけですが、北野から私立の学校へ進学して挫折した人も多いと聞きます。生憎、僕は そうはならなかったですね。たまたま大阪の地元、伏見町の茶の湯の師匠が教えている茶道部に勧誘され、入部したことが契機で、クラブ活動に忙しく奔走する 毎日になったものですから(笑)。
僕は師匠の鞄持ちをしたり、2年間の役員を努めさせてもらったりして、茶道部を当時の関学で一番活発で大掛かりなクラブへと盛り上げました。北中出身の先 生や先輩方から「もう一度、国立大学を受け直すように」強く言われて、一時は勉強も始めたのですが…あまりにも毎日が楽しいもんだから、結局のところ受け 直す気も時間もいつの間にか無くなっていました(笑)。
今も大切に保管されている むかしの商売道具 |
商人の世界では、自由で柔軟な発想が非常に大切だと思うのです。順応性と言いますかね。ちなみに僕の子供は小学校から自由で伸びやかな甲南小学校へ行かせましたよ。
それで、関学に予科をいれて5年間通って卒論を書いたら、担当教授に「大学に残るように」言われました。会計学では非常に高名で面倒見のいい先生でした。「論文を4本書いたら大学院教授にもなれるし、公認会計士資格も取れるから…」という誘惑は正直言って魅力でした。
実際…その頃、家業のほうはというと、すでに戦時中の企業統制下で民間の米穀商は軒並み廃業させられていましたから、商売も何もなかったのです。お米が国 の配給物資となり、米問屋という流通制度そのものが無くなっていました。とりわけ親父は大阪穀物同業組合の組合長をしていましたので、率先して国の政策に 従わざるを得ない事情もあったのです。池萬は真っ先に店をたたんでいました。
もっとも…親父は若い頃から地元の青年団を組織したり、警防団長を務めたりしていましたから、地域社会の人望も厚く、最後は府の公安委員などを歴任していました。ただ、もう年を取っていましたし、商人としての家業は事実上、無くなっていた訳です。
随分悩んだ僕は、教授と相談して一旦は大学に残る決心もしかけていたのですが、しかし、それだと襲名ができません。何よりも、代々続いた池萬の屋号を、僕の代で跡絶えさせてしまうのだけはあまりにも悔しい気がしました。
そうした使命感・抵抗感といった危機意識が、大学卒業・社会人を目前に控えた僕の心中に毎日のように襲いかかりました。「何でもいい…何か商売になるもの はないか」再び家業を作りだすような糸口は見つからないか…心斎橋筋や各地に並ぶ商店を何度も何度も往復しながら思案に暮れたのです。
池萬に代々伝わる家訓は「1.浮利、浮論を追わず大道の中を歩け」「2.雑穀、請判すべからず」「3.己の性格にあわせて、隣りあわせの仕事より道を開け」の3つでした。
新しい商売は僕が初代となるわけですから、別に何を商っても良かったのです。家訓に従って、その範囲の内で何ができるだろうか…。考えた末、結局「丸善」の真似をして文具と書籍の商いを始めることにしました(笑)。