一板
小説家林巧は知の冒険少年だった
- 僕はものを書くという仕事をしているわけです。職業を選ぶというのは、いろんな人にとって、いろんなパターンがあると思います。僕はどっちかというとわりと早い時期にそうなると自分で思って、そうなったという気がするんですね。
ずっと辿っていくと一番最初に本を読み始めたのは、小学校の何年生か、2年生か、3年生で、はっきり覚えているんですけど、読む度に書き手というか著者を憎んでいたんです。ええ。どういうことかと言うと、本を読むのはやっぱり、その年頃の子どもにとっては、結構大変なんです。一冊読むのはわりと苦行なんですよね。だったら、 読まなければいいんだけど、苦しいのに読むと、読むだけで大変なんですよ。書くのはそれの何十倍、何百倍大変だということは、もう容易に想像できる。よく そんな馬鹿なことする人がいるなって、ちょっと信じがたい大変なことをやるなって、そんな気持ちで猛烈に憎んでいました。それで、本は結局読むんですけれ ど、読み終わって、よくもこんなに浮き世離れをしたエネルギーを投入して、こんな馬鹿げたことをする人が世の中にはいるもんだ、という独特の感情を一冊読 む度に持っていたんです。
愛の反対語は無関心
今ではわかります。愛と憎しみは同義語です。愛の反対語は、たぶん無関心でしょう。愛と憎しみはわりと近い感情で、ものすごい興味関心や、思い入れのあま りの深さが、愛情になったり、憎しみになったりする。ものを書いている人や本を書いている人がいる、そういう職業の人が世の中にいるということは、僕が本 を読み始めた頃から非常な関心事だったんでしょう。その感覚的な表現として憎しみになったんだと思います。それで、小学校の初めの何年間か、本を読みなが ら作者を憎しみつづけた時期があったんです。
小学校のクラスに今でもあるかも知れませんけど、学級文庫っていうのがあったんです。図書室なんかに行かなくても何冊かの本が置いてあって、休み時間とか、読みたければ読めるっていう本棚が、各クラスにありました。
4年生の頃、何人か仲間っていうか、手下のように使って、雑誌をつくったんですよ。「マーキュリー」という雑誌です。わりと最初からSFとか空想的な物語 が好きだったんですね。空想的なタイトルで、雑誌といったって、たった一部。小学生ですから全部手で字を書いて、全部ホチキスで綴じて、第何号とか書い て、それを学級文庫に置いといたんです。そうしたら変な物が置いてあるって見るやつがいるんです。それに連載小説を書いていました。
そうするとやっぱりそこに読者って、生まれるわけですね。読んであの続きがどうなるのか、早く次を読みたいとか言う人間が出てくるんですよ。それをやって いるうちに、ちょっと変わった特異な子だという評判になって、「もっと書いた物があれば見せに来なさい」と先生に言われて、先生に見せるんであればってい うつもりで、また書いたりして。見せると先生は何か感想を書いてくれました。いわゆる作文じゃないんです。物語、小説です。そんなことで書いて見せたりし てたんですけども、ある時にその関係が決裂したんですよね。
この子はどういう子なんだろうか
それが小学校5年生の終わり頃でしょうか。ある物語の中で僕は、いろんな障害を持った人をたくさん主要なキャラクターに出したんです。目が見えない人と か、耳が聞こえない人とか、しゃべれない人とか、いろんな事情で。みんなそこにいるわけです。そうするとその人たちが一つの出来事に出会ったときに、理解 するすべが違うわけです。だから、その人たちは、いろいろと話し合う。目が見えない人は聞こえる音と触感で今何が起こったか理解する。見える人はそこで見 えたことを言って伝えることはできる。けれど、聞こえない人には伝わらない。完全な三人称物語として書いたんです。
そうすると小学校のなかで非常に問題になって、この子はどういう子なんだろうかと。そういう体が不自由な人たちを揶揄するような差別的な物語を5年生ぐらいで書いて、この子は一体どういう人間なのかと、ものすごく怒られたんです。
今なら対抗する言葉がはっきりとあります。これは差別的な物語ではなくて、人間が本質的な現象と接する物語で、それぞれに異なる人と人とが本質的な理解を 求める物語だ、というような。でも、小学5年生は、それは違うと心のなかで強く思うしかないんですね。その時のやりとりのなかで、彼ら-先生たちですね- には、わからない、自分の書いているものを理解できないと思ったんです。そんなことがきっかけで、当時読んでいた「SFマガジン」という雑誌のコラムの同 人雑誌の仲間募集に応募を始めました。こういう人たちなら、自分の書いているものを理解してくれるかもしれないと感じて。いくつか手紙を書いたりしたんで すけれども、まあ大体だめなんです。「小学生なんか入れられない」、「もし君が高校生になってまったく同じ心を持っていれば我々は歓んで迎えるでしょ う」、「小学校5年ではとても仲間にできないと」、そんな返事ばかりでした。
筒井康隆さんとの出会い
ところが、当時「SF教室」という児童書がありまして、筒井康隆という人の編著でした。その最後の方に「君がもし何か書いておもしろいと思ったらいつでも送ってくれ。ただし、弟子にしてくれというのだけはごめんだけど」と書いてあったんです。
筒井康隆っていうのは自分でも読んでいて前からおもしろいと思っていたので、学校の先生に見せるのとは違う気合いで書き始めたんです。子どもながらに、も のすごい超大作になる予定で、これはとても時間がかかるから、きっと筒井さんはああ書いてあったけど、できて送ったら自分がそう書いたことを忘れて一体何 だこれはと思うかも知れないと思ったんです。そこで、まず手紙だけを書いたんです。「僕は長い物語を書いています。まだしばらく時間はかかります。できた ら送りますから、おもしろいと思ったらいつでも送ってくれ、と書いたことを忘れないでください」という手紙を。
実際に小学校6年生ぐらいの時に原稿用紙400字で100枚ぐらいまで、その物語を書いていたんですね。その物語は結局書き終わらなかったんですけれど も、小学校6年生のあるとき筒井氏から手紙が来たんです。「同人誌をやるんで君も入らないか」と。ものすごくうれしかった。だって他はみんな断られてまし たから。それでその同人誌に入ったんです。小学校6年の最後のほうですよね。
その同人誌は『ネオ・ヌル(正式には誌名がNULLで、運営する会の名がネオ・ヌル)』っていって、その頃のSFのセミプロみたいな人たちが参加してい て、結局4年ぐらい続いたんです。SFに詳しい人はご存じですが、夢枕獏とか、かんべむさしとか、その辺はみんな『ネオ・ヌル』の出身者なんです。そうし た人たちのなかで、小学生の僕はたぶん一番下じゃなかったのかな。
その発刊から休刊までの4年間は、僕にとっては、小学校6年から中学校3年まででした。枚数に制限があって、ショートショートって20枚くらいの短い小説 を送ると、筒井氏が必ず自分で批評を書いてくれました。何行でもない、そんな長い批評ではないですけど。僕は『ネオ・ヌル』にいたときは、ずっとかかさず 送っていましたが、筒井氏もかかさず、今回の小説はこうだとか批評を書いてくれて、やっぱりうれしかった。
Update :Aug.23,2000